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記者の眼

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途上国で働くということ

カンボジアへの工場進出を支えるある男の場合

熊野 信一郎

 カンボジアの首都プノンペン中心部から、西へ約20km。毎日のように日本企業の関係者の訪問を受ける人物がいる。名前は上松裕士。工業団地、「プノンペン経済特区(PPSEZ)」のマネジング・ディレクター(社長)の肩書きを持つ。事業運営面での最高責任者である。

 2008年にオープンしたPPSEZには現在40社近い企業が入居している。縫製や靴、食品から自動車部品、精密機器まで業種は幅広い。PPSEZはもともとは日本企業の誘致を主な目的として開発されたこともあり、ここに工場を構える企業の半数以上が日本企業だ。

 加えて最近では、台湾やマレーシア、シンガポール、ベトナム、フィリピンなど多彩な国の企業が次々に進出を決めている。中国などからの生産能力の移転の波は、人口約1500万人のカンボジアにも押し寄せている。PPSEZはこの6月に住友商事と販売面で提携したこともあり、進出する企業はさらに増えそうだ。

多数の日本企業をカンボジアにもたらしたプノンペン経済特区の上松裕士マネジング・ディレクター

 上松社長がプノンペンにやってきたのは2007年。その時、PPSEZの敷地は荒野だった。それから5年。今は工場のみならず、従業員宿舎、日本食レストラン、銀行の支店があり、工場ワーカー向けの屋台も出没する。ちょっとした街である。「成功を信じてはいたものの、ここまでのペースとは正直、想像していなかった」と上松社長は話す。

 PPSEZの“生い立ち”は一風変わっている。アジア各国にある日系の工業団地は大半が総合商社によって開発されたもの。PPSEZは商社の資本は入っていない。もともとは、中堅マンションデベロッパーのゼファーの海外事業として始まったプロジェクトだった。

 カンボジアに渡る前、岐阜県の木工会社で働いていた上松社長は偶然、このPPSEZが運営責任者を募集している人材広告を目にし、応募した。経験はあった。大学卒業後にフィリピンに渡って現地の大学を卒業し、日系の大手ゼネコンの社員として工業団地の管理や顧客対応などに携わった経験もある。

 2007年2月。東京での面接を終え採用が決まってから10日後には、上松社長はプノンペンの地に降り立っていた。初めて訪れる国での生活と事業に不安はあった。それでも国民の若さ、不幸な過去から立ち直り、成長へ向かう活力に満ちたカンボジアの将来性への期待が上回っていた。

 しかしその出足から、予期せぬ事態が待っていた。2008年7月、ゼファーが民事再生法の適用を申請したのだ。PPSEZはインフラ工事も終わり、第一号の入居企業が生産を始めようとしていた折の寝耳の水のニュースだった。

 一時は事業継続も危ぶまれたが、上松社長は諦めなかった。カンボジア側の事業パートナーがゼファーの出資分の株式を買い取ることで、「ここに日本企業を呼ぶ」という当初の目的を貫く。本社との連絡や調整作業などから解放されることで「物事が迅速に決められるようになり、結果的に事業がスムーズにいくようになった」と上松社長は話す。

 商社系工業団地のようにコネもなければ、実績も信用もない。最初から大手企業を誘致するのは難しい。中堅企業から始めて一歩ずつ実績を作り、徐々に大手企業にアプローチする。そんなストーリーを描いた。

 その目論見通り、最初は革靴や縫製などの企業を集めた。そして2010年に味の素の進出が決定すると、次々に入居申請が舞い込むようになる。2011年に生産を始めたミネベアの小型モーター工場、今年4月にオープンした住友電装のワイヤーハーネス工場など、名だたる企業が次々に敷地を埋めていった。

 ミネベアの工場開所式にはフン・セン首相も出席するなど、今ではこのPPSEZはカンボジアの工業化のシンボルだ。上松社長の信念は、少なからずカンボジアという国の産業や企業、そしてそこで働くワーカーなどの生活に影響を与えている。

 アジアのどんな国に行っても、さまざまな分野で数多くの日本人が活躍しているのを見つけることができる。もちろんその目的は十人十色だ。ただ発展途上国で働くモチベーションとして共通するのは、事業を通じて「その国の人々の幸福度を高める」ことがストレートに実感できることだろう。惹かれるのは、ただ単にGDP(国内総生産)や市場の成長率だけではないことだけは確かだ。