(【16】第四章 董卓1から読む)
胡座(あぐら)とは座り方であるが、「胡」の文字を使うからには西方異民族の作法だ。また、胡床も同じ読みをするが、こちらは折り畳み式の簡易椅子を言う。中国では、最初に涼州へ持ち込まれたと思(おぼ)しい。
董卓も、その胡床に懸けて地平線を睨(にら)んでいた。黄巾の乱の後、彼は朱儁(しゅしゅん)という武将と杯を交わすことが何度かあり、その際に長安遷都説を言い募った。大きな乱が洛陽近郊で発生したからである。
しかし、朱儁は首を縦に振らない。洛陽を神聖視する反発ではなく、長安の都としてのインフラが調っていないとの理由だ。だが、西の長安へ皇帝を据えれば、涼州を根城にする董卓には、至極都合がいいのである。
彼は不惑過ぎから下腹の肉が一段と付き、良く言えば貫禄充分だったが、肥満が過ぎて馬にも乗りにくい。だが、愛馬はよく彼を支えた。そんなおり、再び反乱鎮圧の命が届く。
黄巾の乱が収まると、涼州で辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)が乱を起こした。すると、また皇甫嵩(こうほ・すう)が副車騎将軍の肩書きで駆り出された。董卓には中郎将として、彼に合流せよとの命令がくる。
ところが、黄巾の乱鎮圧の疲れが残っていると判断されたのか、皇甫嵩はすぐに更迭された。つづいて、車騎将軍の張温(ちょうおん)に付くために、長安へ来いとの命令に変更された。このときの肩書きは破虜(はりょ)将軍だ。ここで彼に出撃命令が出るのは、涼州に土地勘があるのと、辺章や韓遂へ羌族が加勢しているからである。
「本気で戦うことはない。適当にしておかないと、清流派の将軍らのように、真面目に戦って左遷されてては、割に合わぬわァ」
かつて、戦いには決して手を抜かなかった彼だったが、一度謂(い)われのない免職を受けて、考え方は大いに捻(ひね)くれた。仕事は要領よく適当にであった。
長安へは、命じられた期日より5日ばかり遅れて到着した。風がきつくて、思うように進めなかったと言い訳して張温を納得させた。だが、傍の別部司馬の孫堅(そんけん)なる若い武将が、にこりともせず彼を横目で睨んでいた。
「若いの、しっかり働くのだぞ」
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