「サテライト「三国志」群像」

「多分、出世を餌に無理やり相手を…」

【18】第四章 董卓3

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2012年9月12日(水)

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【17】第四章 董卓2から読む)

 洛陽の周囲には、函谷(かんこく)、小平津(しょうへいしん)、孟津(もうしん)、旋門(せんもん)、カン(環/王は車)轅(えん)、大谷(だいこく)、広成(こうせい)、伊闕(いけつ)という名の関所が、計八つあった。

 袁紹や曹操ら、気鋭の校尉(こうい・将軍候補の隊長)が担当するということで、西園八校尉(せいえんはちこうい)と呼ばれ、前年の中平5年(188年)に置かれていた。

 皇帝宏の崩御で、持ち前の機能が発揮されると期待もされていた。だが、やや見込み違いな事件が起こってしまった。

 原因は、最高権力者の何進が、宦官を一掃しようと考えたことに始まる。何皇太后は、これまでに宦官から多くの恩義を受けているとして、異母兄の行動を牽制した。

 随分律義なことだが、それを諦めさせるため、何進は周辺の軍閥を洛陽へ呼んだのである。荒くれ男の大掛かりな軍事行動を見せつけられれば、何皇太后も意見を引っ込めざるをえないと、何進は踏んだのだ。

 董卓も、そのような経緯から呼ばれた一人であるが、当人はそれを百も承知である。他には、并州(へいしゅう)刺史(しし)の丁原(ていげん)らがいた。

 「洛陽へは行くが、何も急ぐことはなかろう」

 董卓らしい発想で、彼は「赤兔(せきと)」と名づけている愛馬を進めた。

 「こいつは、前漢の武帝が必死になって手に入れた汗血馬(かんけつば)の子孫でな」

 彼は、部下の樊チュウ(禾/周)や張済(ちょうさい)に話しかけていた。そんなとき、斥候役の秦宜録(しんぎろく)が、とんでもない知らせを持ってきた。

 「何進様が、宦官どもに暗殺されたということで、洛陽の宮中は大騒ぎです」

 「何とな。これは面白いことになってきた」

 董卓は哄笑しながら、歩調をやや速めた。無論、入れ替わり立ち替わり斥候を立てる。

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