(【36】第八章 陶謙2から読む)
徐州牧の肩書きを得たい陶謙は、5郡の中から評判のいい人物を調べてみた。自分の片腕として使えば、本人のためだけでなく、彼自身の評判にも通じるからだ。
「琅邪の趙イク(昆の比を立)なる者が、親孝行で行いも人の模範となり、評判です」
報告から、陶謙は陳珪(ちんけい)や陳登らを呼び寄せた。特に陳登は農業作物の育成に貢献し、徐州の収穫は一段と豊かになった。だが、趙イク(昆の比を立)は、評判で官職を得ることを恥と考え、応じなかった。
そうすると陶謙にも意地があり、趙イクを庁舎に呼び寄せるため、さまざまな手段を弄(ろう)した。だが、彼は首を縦に振らなかった。そして最後には、刺史の命令を袖にするなら、罪に落とすと脅した。
これで、ようやく趙イクが出てきたので、広陵郡太守に就けた。そこで、北隣の下ヒ(邸の氏を不)郡にいた盗賊の筰融(さくゆう)を、曹豹らに攻撃させる。すると筰融は広陵郡へ逃げ込んでいく。
太守に就任したばかりの趙イクが迎え撃ったが、軍事部門が不得手な彼は、敗北を喫して殺されてしまった。これは陶謙の、陰険な竹篦(しっぺ)返しだったのかもしれない。
初平3年(192年)、長安へ遷都した董卓が、養子の呂布に暗殺された。だが、董卓子飼いの策士賈(か)ク(言/羽)の提案で、部将李カク(確の石が人偏)や郭シ(三水/巳)、張済(ちょうさい)、樊(はん)チュウ(禾/周)、らが反撃し、呂布を長安から追い出してしまう。
いや、これだけではない。この年には孫堅も、襄陽南方のケン(山/見)山付近で戦死している。
これらの事件で、また中華の軍事的な均衡(バランス)が崩れることとなった。
いただいたコメント
コメントを書く