(【54】第十二章 陳宮1から読む)
太平道の宗教暴動ともいえる黄巾の乱の最中、陳宮の仕事は兵站戦(へいたんせん)の確保であった。つまり、食糧や武器をはじめとした軍需物資を、確実に送るための基地を造って、流れが滞らないようにしたのだ。
武人でなく文官系の陳宮には、良い役目であったかもしれない。だが、曹操が騎都尉(きとい・独立軍を動かせる遊撃隊長)として、将軍の皇甫嵩(こうほ・すう)や朱儁(しゅしゅん)の増援軍として派遣され、相応の活躍をして名を上げたのに比肩して、陳宮の存在感は低かった。
乱が終結した後、曹操は済南国の相(そう・中央官庁から派遣され地方の国王を監視する長官)となった。そこの商人たちは、都の宦官が売る爵位を不法に買っていた。
陳宮は密偵を使って、その証拠を固めたのである。そこで曹操は国軍を借り受け、商人どもの屋敷へ踏み込んで、彼らを捕らえて処刑し、その財産を没収したのであった。
没収した財産は、かなりな額に昇るが、それは国庫に入れられるはずである。だが、運ぶみちすがら、何進の身内がそれを受け取って、洛陽へ行く途中で盗賊に襲われた。
それは黒山賊という、黄巾賊の残党だったと言われている。だが、それは狂言強盗のようなもので、中身は総て曹操が既に抜いていたのであった。しかも、陳宮の策謀ではなく、曹操自身が練ったものだった。
済南国で作った一財産は、曹操が軍閥として成長する糧となったのである。陳宮は、参謀と言われながら、詳細を知らされなかったことが、やや悔しかった。だが、それは曹操の近くにいるものの、知り合って日が浅いからだと思っていた。
その後、洛陽へ戻った曹操は、西園八校尉の一人に抜擢された。つまり、洛陽へ入るための要衝を見張る代官のような存在だ。
陳宮は、曹操の秘書役を一人でこなした。そして、何進と宦官の動きを偵察し、後宮における董皇太后(皇帝宏の生母)と王貴人が生んだ劉協と、何皇后が生んだ史侯(劉弁)との対立などの詳細を掴んでは、曹操に報告していた。
だが、陳宮が思いも寄らなかった所から、政治の力学関係が崩れることとなった。それは、皇帝宏の崩御(ほうぎょ)だった。
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