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「宮中の宦官どもは宮廷人の権威のお零れで生きているだけだ」

【55】第十二章 陳宮2

2012年11月6日(火)

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【54】第十二章 陳宮1から読む)

 太平道の宗教暴動ともいえる黄巾の乱の最中、陳宮の仕事は兵站戦(へいたんせん)の確保であった。つまり、食糧や武器をはじめとした軍需物資を、確実に送るための基地を造って、流れが滞らないようにしたのだ。

 武人でなく文官系の陳宮には、良い役目であったかもしれない。だが、曹操が騎都尉(きとい・独立軍を動かせる遊撃隊長)として、将軍の皇甫嵩(こうほ・すう)や朱儁(しゅしゅん)の増援軍として派遣され、相応の活躍をして名を上げたのに比肩して、陳宮の存在感は低かった。

 乱が終結した後、曹操は済南国の相(そう・中央官庁から派遣され地方の国王を監視する長官)となった。そこの商人たちは、都の宦官が売る爵位を不法に買っていた。

 陳宮は密偵を使って、その証拠を固めたのである。そこで曹操は国軍を借り受け、商人どもの屋敷へ踏み込んで、彼らを捕らえて処刑し、その財産を没収したのであった。

 没収した財産は、かなりな額に昇るが、それは国庫に入れられるはずである。だが、運ぶみちすがら、何進の身内がそれを受け取って、洛陽へ行く途中で盗賊に襲われた。

 それは黒山賊という、黄巾賊の残党だったと言われている。だが、それは狂言強盗のようなもので、中身は総て曹操が既に抜いていたのであった。しかも、陳宮の策謀ではなく、曹操自身が練ったものだった。

 済南国で作った一財産は、曹操が軍閥として成長する糧となったのである。陳宮は、参謀と言われながら、詳細を知らされなかったことが、やや悔しかった。だが、それは曹操の近くにいるものの、知り合って日が浅いからだと思っていた。

 その後、洛陽へ戻った曹操は、西園八校尉の一人に抜擢された。つまり、洛陽へ入るための要衝を見張る代官のような存在だ。

 陳宮は、曹操の秘書役を一人でこなした。そして、何進と宦官の動きを偵察し、後宮における董皇太后(皇帝宏の生母)と王貴人が生んだ劉協と、何皇后が生んだ史侯(劉弁)との対立などの詳細を掴んでは、曹操に報告していた。

 だが、陳宮が思いも寄らなかった所から、政治の力学関係が崩れることとなった。それは、皇帝宏の崩御(ほうぎょ)だった。

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「「宮中の宦官どもは宮廷人の権威のお零れで生きているだけだ」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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