主人公の自己愛
さて、今回はポーの「ウィリアム・ウィルソン」の第二回目の後半部をお読みいただこう。この分身と主人公は、奇妙な愛情関係を築いていく。Xの側は、超自我らしい父親のような愛情を示したのだが、主人公の方でも奇妙な愛着を感じている。「ぼくたちの気質にはとても似たところがあったし、こんな立場でなければ、二人の仲は友情にまで成熟しえただろう」と主人公は回想する。
ここで主人公の微妙な感情の質があらわになる。一つはすでに名前へのねじ曲がった感情について考察したときに触れたように、主人公はきわめて自己愛の強い人間だということである。それは冒頭の自己の幼年時代の気質の描写からもすでにうかがえたことだった。両親を圧してしまうほどの強い自己愛があり、それが他者を征服し、自己の思いのままに行動するすべを獲得していた。彼の言葉は「一家の法」となり、「ぼくは自分の意志を押し通すように」なったのだった。
これは「わが一族」への強いこだわりにも現れている。彼の名前は「わが一族」の恐れと嫌悪の対象となったことを彼は嘆いているが、それは逆の意味で「わが一族」の名前への誇りを示すもの、自分の身分の高さへの固執を示すものである。「名門の出」であることにひそかな誇りを抱いているが、それを正面から認めたくはないのである。それにたいして「ウィルソンはどれほど遠い縁を探っても、ぼくの一家とは縁続きではなかった」のだった。
主人公の同性愛
このような強い自己愛に囚われている人物が、自分の影のような存在に出会ったときに、どのような反応を示すかは、古代のギリシアのナルキッソスの物語が語っている。美貌で傲慢な青年だったナルキッソスはある日、水を飲もうとして、川の水面で自分の顔をみつける。「ナルキッソスはとうとう我と我が身を恋するようになりました。彼は接吻しようとして唇を寄せたり、水に腕を差し入れて愛する人を抱こうとしたりしました。けれども手を触れると面影は逃げて、一瞬の後にはまた新たな嬌態をみせました」[1]。ナルキッソスは、この幻の相手を追い求めて、溺れ死ぬのである。
主人公とXがその性格だけでなく、容貌や振る舞いなどにいたるまでそっくりだったことは、「学校の上級生たちのあいだには、ぼくたちが兄弟だという噂が広まっていた」ことからも明らかだろう。二人は「精神的にも身体的にも酷似している」のである。そしてこの容貌の類似は、やがてこの場面の最後で本人が劇的に確認することでもある。
精神分析の理論では、このような強い自己愛は、同性の人物を愛する傾向があるとされている。「リビドーの発達に障害が発生している人物では、成長してリビドーの対象を選択する際に、母親の手本に従うのではなく、自己自身を手本として選択することが発見されたのである」[2]。イギリスの学寮生活のように同性への愛情がめばえやすい環境においては、この傾向はさらに強くなるのかもしれない。
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