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「さあ、突撃して、袁紹軍を挟撃だ!」

【63】第十三章 公孫サン(王/贊)5

2012年11月16日(金)

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【61】第十三章 公孫サン(王/贊)3から読む)

 袁紹が劉虞への援軍を送らなかったのは、もう利用価値がないと判断したからだろう。それでも、公孫サンと袁紹の対立は、もう避けようがなかった。

 この状況で、曹操が袁紹と同盟関係を結んだ。彼の所領はエン(亠/兌)州(河南省)が中心なので、徐州(江蘇省と安徽省それぞれの北部)から背後を突かれるかもしれなかった。そこで、部将の劉備と単経、陶謙を高唐、平原、発干へと駐屯させた。

 また、それは揚州(江蘇省と安徽省それぞれの南部)へ勢力範囲を移した袁術からの要請でもあったのだ。だが、三人は皆、曹操の軍に破られていた。

 その後、徐州刺史の陶謙に下ヒ(丕/邑)を守備させ、劉備軍を援軍とした。そこには関羽や張飛と趙雲も付けたのである。

 すると、曹操を牽制するためか、陶謙の部将張ガイ(門/豈)が、曹操の父親曹嵩(そうすう)を誘拐しようとした。それは、天帝教の取り締まりに紛れて行おうとしたため、誤って殺害する結果になった。そこで、曹操の徐州攻撃が始まったのである。村を一つ焼き尽くすような執拗さに、徐州の民は真っ蒼になっていた。

 このようなときに、公孫サンはもうこれ以上の援軍を送らなかった。多くの兵を繰り出せば、肝腎の幽州を袁紹に攻められるからだ。

 それはそれで理屈であるが、彼は易京(えききょう・河北省雄県北)へ移って、そこに大規模な砦の街を建設していた。大きな櫓を幾つも組み、袁紹が攻めてきたら、早速発見して軍を展開させるつもりだったようだ。

 平初5年(194年)、曹操を頼っていった呂布が、主人の留守をよいことに、反乱を謀った。そこで、曹操の徐州討伐は終わったが、病身の陶謙が他界して劉備がその後を嗣ぐこととなった。

 だが、今度は曹操に追われた呂布が徐州へ逃げ込んで、身柄を引き受けた劉備の手を噛んで下ヒ(丕/邑)城を乗っ取った。

 だが、公孫サンは援軍も送らぬ代わり一切口出しせず、劉備らとは疎遠になっていく。そして、易京をどんどん城塞化していった。

 そこで、彼の側近になったのは、占師の劉緯台(りゅういだい)や大商人の李移子(りいいし)、楽何当(らくかとう)らで、大いに金銭を集めて穀物を買い占めていたのだ。

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「「さあ、突撃して、袁紹軍を挟撃だ!」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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牛島 信 弁護士