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「孫堅様の名声は、こちらでも鳴り響いております」

【88】第十九章 周瑜1

2012年12月25日(火)

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【87】第十八章 橋姉妹5から読む)

  大橋と小橋の出身地皖(かん)県は廬江(ろこう)郡にあるが、周瑜の出身地舒(じょ)県も同じ郡内にあった。実際には80キロメートルばかり東北に位置するから、幼少のおりに彼らが出遭うことはなかったろう。

 周氏一族は漢の三公であったし、父親の周異(しゅうい)も長安県令であったことで財産もあり、屋敷も大きく所有地も広かった。

 孫堅が武将になって反董卓軍として遠征に向かったおり、彼は家族の安全を考えて舒県に住まわせた。その際、周家は孫氏に便宜を図り、大きな屋敷を宛がってくれている。

 「孫堅様の名声は、こちらでも鳴り響いております」

 それが、両家の付き合いの始まりで、周瑜と孫策、孫権らの出会いだった。年長の2人は15歳ばかりの少年で、それぞれが将来美丈夫になる面構えであった。そのとき、孫権はまだ5、6歳の幼児だった。

 当時のような平均寿命の短い頃は、15歳といえば早くも大人の仲間入りをさせられたものだ。周家も孫家も、郎党や家人は大勢いたので、2人は彼らを連れて騎射や剣、槍の訓練を欠かさなかった。

 そのような中、初平3年(192年)まず孫策の運命が少し狂いだした。

 「たいへんです。孫堅様が荊州で」

 それは、孫堅が襄陽郊外のケン(山/見)山で、黄祖(こうそ)に射殺されたことだ。

 孫堅の遺骸を曲阿に葬り、当主を孫策が嗣いだものの、主家筋の袁術に軍を解体されてしまった。そして、呉近辺で臣従していたはずの軍閥が、掌(てのひら)をかえしたように離れていった。中には露骨に反旗を翻(ひるがえ)す者まで現れる始末だった。

 孫堅が遠征へ出かけるにあたり、家族を舒県に移したのは、万一を慮(おもんぱ)ってのことだが、ここで大いに生きたことになる。

 「態勢を立て直さねばなるまい」

 周家は孫氏への待遇を一切変えずに付き合ってくれたが、孫策は、一旦住まいを江都(揚州)に移し、離れた家来たちを、呂範や孫河の協力で連れ戻そうと苦心していた。

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「「孫堅様の名声は、こちらでも鳴り響いております」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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中村 克己 元ルノー副社長、前カルソニックカンセイ会長