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「劉璋では蜀が保たないと考えておるのだ」

【109】第二十三章 黄忠4

2013年1月31日(木)

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【108】第二十三章 黄忠3から読む)

 建安16年(211)年に、ローマ帝国では、アフリカ生まれの皇帝セウェルスが崩御(ほうぎょ)し、息子の兄バッシアヌスと弟ゲタが共同統治を始めている。

 兄は別名カラカラ(共同浴場の名称)と呼ばれ、有名な暴君となるのである。

 さて、劉備が蜀地方(益州)へ色気を示していたのは、赤壁の戦いの以前からだ。それも、諸葛亮の思惑である。その前提として、輜重(しちょう・軍需物資)補給基地として、南荊州が欲しかったのも確かだ。

 それを果たして、自ずと蜀へ侵る口実を探っていた。ところが、劉備の野心を薄々知っていたと思われる益州牧の劉璋から、招聘(しょうへい)があった。つまり、土産を持った使者が、劉備を訪ってきたわけだ。

 無論、ただ友好を結びたいというはずがない。劉璋の腹は、冷戦状態にある五斗米道の張魯(ちょうろ)を、劉備を使って牽制(けんせい)したいのだ。

 この時期にそれを要請してきたのは、劉備の機先を制したいということもあるが、あと一つの理由は曹操の軍事行動にあった。

 赤壁で負けて洛陽へ戻った曹操も、態勢を立て直して、蜀への侵攻を狙っていた。そのためには、北荊州からよりも、関中(長安のある渭水盆地)から秦嶺山脈にある蜀の桟道(さんどう)を使った方が手っ取り早い。

 最近その一環として、曹操は潼関へ攻め込んでいる。護るのは、昔からこの辺を仕切っている韓遂と、かつて彼と手を組んでいた馬騰(ばとう)の息子馬超(ばちょう)だった。

 しかし、彼らの連合は曹操に崩(くず)され、馬超は張魯のもとへ逃げ込んでいったという。このまま曹操が蜀の桟道を越えてきても、馬超が張魯に加勢しても、どちらも劉璋には困った事態になる。

 だから、彼が劉備を招聘したのは、言わば苦肉の策だった。献策したのは、法正(ほうせい)と張松(ちょうしょう)である。逆に、劉璋側近の黄権(こうけん)らは、劉備を招くことに猛反対したらしい。王累(おうるい)に至っては、身を門前に吊して諫め、聞き入れられなかったので自刃したという。

 それでも、劉璋は劉備を迎えた。それほど、彼の不安は切迫していたのだ。

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「「劉璋では蜀が保たないと考えておるのだ」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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