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自己への恐怖

モーパッサン「オルラ」を読む(11)

2013年1月29日(火)

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 今回は補足として、「オルラ」の原型となったモーパッサンの「あいつ」を抜粋でご紹介しよう。この小説を読むと、「オルラ」が自己への恐怖の物語を背景としていることが、よく分かる。

 モーパッサンの叔父は奇妙な病気にかかっていた。恋人に裏切られて、「放蕩によってその悲しみを紛らわそうと試みた。その結果、精神錯乱に陥り、自分がもう一人の自分に、つまり二重人に見える幻覚が繰り返されるオトスコピーという世にも奇妙な病気にとりつかれた」[1]のである。この叔父は、スピノザを読みながら、心臓病で亡くなっている。「ああ、窓を締めてくれ、あまりに明るすぎる」というのが最後の叫びだったという。

 モーパッサンもこの叔父から同じ病を受け継いだようである。一八八五年にある夫人に次のように打ち明けたという。「ながいあいだ鏡にうつるわたし自身の影像をじっと見つめていると、ときどき自我の観念を喪失することがあります。そうした瞬間には、わたしの精神は支離滅裂になり、誰のものか分からないこの顔を鏡の中に見るのが奇妙に思えてきます。すると……私という存在であること、すなわち誰かであることがおかしく思われてくるのです」[2]

 鏡を見つめていると、自我が分裂してしまい、鏡の中の私は私ではない他者として、私を眺めているように感じられるのである。その他者のまなざしは、モーパッサンを恐怖へと追いやったらしい。『あいつか?』という小品は、そのような他者である自己への恐怖を語った物語である。

 この小説は親しい友人に結婚を知らせる文から始まる。主人公はそれまで結婚ということを軽蔑していた。「ぼくは法律にしたがってカップルになるなんて、愚行だと思う」というのが彼の信念だったのである。それでも結婚を決意した主人公は、友人が驚くだろうかと、その理由を説明する。それが次の段落である。

******

 ぼくは一人でいたくないから結婚するのだ。
 どう説明したらよいか、分からない。どう言えば理解してもらえるだろうか。きっと君はぼくを哀れむだろう。軽蔑するだろう。それほどにぼくの精神状態は悲惨なのだ。

 ぼくは夜のあいだもはや一人でいたくないのだ。ぼくの近くに、ぼくの向かい側に誰かいてほしいのだ。ぼくが話しかけることのできる誰か、どんなことでも何かを語ることのできる誰かがいてほしいのだ。

 眠りから叩き起こすことのできる人がほしい。思い立った時に何かを尋ねることのできる人がほしい。つまらないことでも尋ねて、その人の声が聞きたいのだ。自分の家に人が住んでいることを感じられることが、目覚めている魂がいることが、働いている理性があることが、急に蝋燭に火を点して、ぼくの側に人間の顔があることを見ることができることが望みなのだ。というのは、というのは、(ああ、この恥ずかしいことを語ることができない)、というのは、ぼくは怖いからだ、一人でいることが。

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「自己への恐怖」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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