• BPnet
  • ビジネス
  • IT
  • テクノロジー
  • 医療
  • 建設・不動産
  • TRENDY
  • WOMAN
  • ショッピング
  • 転職
  • ナショジオ
  • 日経電子版

「曹公が、赤壁で負けたらしい」

【160】第三十四章 公孫淵2

2013年4月16日(火)

  • TalknoteTalknote
  • チャットワークチャットワーク
  • Facebook messengerFacebook messenger
  • PocketPocket
  • YammerYammer

※ 灰色文字になっているものは会員限定機能となります

無料会員登録

close

【159】第三十四章 公孫淵1から読む)

 「曹公が、襄平侯(地元の襄平に領地を持つ貴族)で左将軍の肩書きを贈ってきよったぞ」

 それは、袁熙と袁尚の首を届けた論功行賞である。公孫康は、公孫家の将来を見越して処置したのだが、二人が軍略奪の悪心を抱いてくれていて、かえって気分は楽だった。

 あたら人の好い人物だった場合、寝覚めが悪くなったかもしれない。彼はその時のことを振り返って、ときおり本音を漏らした。

 「それでは、兄者は長生きできましょう」

 言うのは、公孫淵にとって叔父に当たる公孫恭(こうそんきょう)だった。だが、そのような話をしている矢先、公孫康は倒れた。

 現在で言う、蜘蛛膜下出血のような状態だったらしい。彼は数日後、呆気なく卒した。

 公孫淵は無論、兄の公孫晃も元服していなかったので、総領は叔父の公孫恭が嗣ぐことになった。

 「袁家兄弟の祟(たた)りだ」

 流言蜚語に耳を貸す向きもあったが、その最たる人物が、実はこの公孫恭だった。囁きは直ぐに消えたが、彼はいつまでも験(げん)を担いで、袁兄弟の首が刎ねられた所には近づかず、首が運ばれた街道を通らなかった。

 「曹公が、赤壁で負けたらしい」

 その噂で、何かが変わったわけではなかった。遼東は中原(洛陽を中心とした中華の中心地)から見ると僻地で、不断でも中央政府の支配が及びにくい土地柄だ。

 そう考えると、曹操は自軍の態勢を立て直すのに必死で、遼東郡の支配権を云々してはこない。つまり公孫家の支配権が、更に干渉されにくくなったのだ。

 それは劉備が益州(蜀)に政権を樹立するに及び、ますます真空地帯のような状況となっていった。魏と呉の対立は、やがて蜀も含む三国鼎立(ていりつ)の状況になった。

 それは、遼東の公孫家にとって、実に歓迎すべき状況だった。

コメント0

「サテライト「三国志」群像」のバックナンバー

一覧

「「曹公が、赤壁で負けたらしい」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

日経ビジネスオンラインのトップページへ

記事のレビュー・コメント投稿機能は会員の方のみご利用いただけます

レビューを投稿する

この記事は参考になりましたか?
この記事をお薦めしますか?
読者レビューを見る

コメントを書く

コメント入力

コメント(0件)

ビジネストレンド

ビジネストレンド一覧

閉じる

いいねして最新記事をチェック

日経ビジネスオンライン

広告をスキップ

名言~日経ビジネス語録

人は何か自信を持って誇れるものを持っているはずです。

為末 大 元プロ陸上選手