• BPnet
  • ビジネス
  • IT
  • テクノロジー
  • 医療
  • 建設・不動産
  • TRENDY
  • WOMAN
  • ショッピング
  • 転職
  • ナショジオ
  • 日経電子版

二つの顔をもつ小男の登場

ホフマン「大晦日の夜の冒険」を読む(4)

2013年3月12日(火)

  • TalknoteTalknote
  • チャットワークチャットワーク
  • Facebook messengerFacebook messenger
  • PocketPocket
  • YammerYammer

※ 灰色文字になっているものは会員限定機能となります

無料会員登録

close

 さてシャミッソーの『影をなくした男』の物語を最後まで確認しておこう。悪魔から魂を渡せともちかけられた主人公は(ここでペーター・シュレミールという名前であることが明らかにされる)、「魂と影と取り替えるなんて、少々剣呑ってものでしょうから」[1]と、書類に署名するのを拒む。

 すると悪魔は、魂などという、ほんとうに存在するかどうかも分からないもののために、現世での幸福を犠牲にするのは愚かしいことだと説得するが、シュレミールは断りつづける。すると悪魔はシュレミールの影を取り出してみせる。「例のお預かりものですが、ちゃんと保管しておりましてね。黴ひとつ生やしてはおりませんよ」[2]。悪魔はポケットから影をとりだして、「さっとばかりに野原に投げ、足もとの陽当たりのなかにひろげてみせました」[3]

 そして悪魔が飛び跳ねると、シュレミールの影もまた、悪魔と同じように動くのだった。この部分は、影が本人の影ではなく、売られた相手の影になっていることを示すもので興味深い。悪魔にはきっと影がないのだろう。

 シュレミールは困惑していたが、やがて自分の影にそっくりな影だけが歩いているのをみつけ、自分の影をとりもどそうとして、それを追いかける。やっと追いついてみると、それは自分の影ではなく、姿を消すことのできる「鳥の巣」と呼ばれる隠れ蓑であり[4]、別の男がそれをつけていたために、影だけがみえたのであることが分かる。

 シュレミールはその鳥の巣を奪って、婚約者のもとに姿を隠して様子をみにゆく。ところが婚約者の家に到着して待機していると、悪魔がやってきて、鳥の巣はとりもどされてしまうが、姿も影も隠れるほんものの隠れ蓑を貸してくれる。鳥の巣を奪うことができたのも、婚約者が他人の妻になるところを目撃させて、契約をさせようとする悪魔の悪知恵だったのである。

 婚約者が他人と結婚するのを目にして、シュレミールは絶望して漂泊の旅にでる。着ているのは「クルトカと呼ばれる古ぼけた黒い上着」[5]だけ、履いているのは古いブーツだけ。やがてこのブーツも駄目になってしまう。そこでシュレミールは靴屋で古靴を買うが、その靴が一歩で七里を進むという童話の「七里靴」だったのである。それから彼は空を駆けながら、中国に、ブラジルに、世界のさまざまな諸国を訪れるようになる。とくに自然研究や植物採集に熱中し始めたのである(彼が南米のチンボラソ山の高山植物の標本を調べているのはそのためである)。

 問題なのは、七里靴を履いていては、同じ場所にとどまっていることができないということである。一足で七里なのである。そこで彼はスリッパをブーツの上に履くことにした。とどまろうとすると「一々靴を脱ぐのもやっかいな話でした。思うところがあって靴の上にスリッパをはかせてみたところ、期待どおりの効用のあることが分かりました」[6](この物語の主人公がみたのも、一か所にとどまるためにブーツの上に履いていたスリッパだった)。この章の最後で主人公が空を飛ぶ大男に、「ペーター・シュレミール」と呼びかける理由も、前のところで主人公が「この見知らぬ男を知ってはいないが、それでもしばしば考えたことがある」と思う理由も、これでご理解いただけただろう。

コメント0

「ウェブ読書会」のバックナンバー

一覧

「二つの顔をもつ小男の登場」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

日経ビジネスオンラインのトップページへ

記事のレビュー・コメント投稿機能は会員の方のみご利用いただけます

レビューを投稿する

この記事は参考になりましたか?
この記事をお薦めしますか?
読者レビューを見る

コメントを書く

コメント入力

コメント(0件)

ビジネストレンド

ビジネストレンド一覧

閉じる

いいねして最新記事をチェック