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「つまり儂が主上に禅譲を迫るのだ」

【180】第三十八章 曹爽5

2013年5月17日(金)

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【179】第三十八章 曹爽4から読む)

 正始5年(244年)、毋丘倹(かんきゅう・けん)が高句麗を占領した。王や王族には逃げられたが、これで公孫淵以来不安定だった東北の治安は回復されそうである。

 曹爽はそのような報告を聞いて、毋丘倹なる部将を思い起こした。彼は曹爽より5、6歳年長だったが、武官に取り立てられて皇帝叡には可愛がられていた。

 いざとなれば、この部将を司馬懿にぶつけることができぬかと、奇妙な妄想までするようになった。

 正始7年(246年)前後から、戦乱のため長江流域へ避難していた農民たちが中原へ帰還する姿が顕著になりだした。すると曹爽らは、受け容れてはならぬと言いだした。

 「いざとなれば故国を捨てる民など、魏の住民とは言えぬ!」

 おおむね、そのような意見を連ねた。

 「武人であれば敵前逃亡で万死に当たりますが、百姓(庶民)の安全は国家が護るもの。彼ら自身で護らねばならぬようにしたは、国家の失態にて咎め立てなさいませぬよう」

 曹爽は司馬懿の意見にも耳を貸さず、何十万人もの農民を長江流域へ押し戻した。これは、敵に食糧を与えるごとき愚策であった。

 正始10年(249年)、曹爽は郭皇太后を永寧宮に幽閉した。これも、彼女と司馬懿の信頼関係を断ち切るための方策である。

 それと、曹爽らが臣下の身でありながら宮女を宴席に侍らせたことを、咎められると怖れたこともある。また、これにて宮中での曹爽の権力構造は、完全に確立したのだ。

 郭皇太后は、「司馬懿に会わせよ」と宣うたが、曹爽は「太傅は御病気にて」と応えていた。しかし、曹爽にとって、またしても思わぬ事態が起こった。それは、司馬懿の引退宣言である。正に、瓢タン(竹/單)から駒だ。

 「寄る年波には勝てず病気がちにつき、宮中の務めが適いませぬ。どうぞ、隠居をお許しください」

 こう言われては、曹爽に反対する理由はない。その後、司馬懿の屋敷には、司馬一族の若者や女たちが、連日駆けつけていた。いかにも介護をされているという雰囲気が伝わって、惚(ぼ)けの噂も聞こえてくる。

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「「つまり儂が主上に禅譲を迫るのだ」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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