• BPnet
  • ビジネス
  • IT
  • テクノロジー
  • 医療
  • 建設・不動産
  • TRENDY
  • WOMAN
  • ショッピング
  • 転職
  • ナショジオ
  • 日経電子版

「諸葛家を栄えさせるのも滅ぼすのも長男であろう」

【187】第四十章 諸葛恪2

2013年5月28日(火)

  • TalknoteTalknote
  • チャットワークチャットワーク
  • Facebook messengerFacebook messenger
  • PocketPocket
  • YammerYammer

※ 灰色文字になっているものは会員限定機能となります

無料会員登録

close

【186】第四十章 諸葛恪1から読む)

 諸葛恪(立心偏/各)が礼を言うと、孫権は怪訝(けげん)な表情を浮かべた。

 「まだ、馬が届いておらぬのに、礼を言うのはなぜじゃ?」

 「はい、益州(蜀)などという所は、もともと呉の馬小屋のような土地柄ですから、届かぬ道理はございませぬ」

 この一言に、孫権は大いに笑った。こうなると、実際に馬が贈られてくるかどうかは、二の次となる。

 建安24年(219年)、蜀将の関羽は荊州の北部宛(えん)県郊外の樊城(はんじょう)を攻めた。魏の援軍于禁(うきん)が、洪水で島に取り残されて、関羽の捕虜となる。

 だが、これが仇となって、関羽は食糧不足に陥り、遂には呉の食糧庫を襲ったため、呉軍の攻撃を受けて捕らわれ、処刑の憂き目をみることとなった。

 これにて、荊州南部は無論のこと、北部の半分まで呉の領土に帰する。

 ここからの展開は目まぐるしく、翌建安25年(220年)、曹操が病没して曹丕が皇帝協から禅譲を受けて魏帝国を興す。それを受けて劉備も翌年(221年)蜀(漢)帝国の皇帝に即いた。

 このような状況では、蜀から諸葛恪に馬など届く道理もない。おまけにその年、張飛が寝首を掻かれて暗殺され、首が呉に届けられた。このとき、蜀との開戦を予想した孫権は、魏皇帝に臣従すると声明を出し、魏と平和協定を結んでいる。

 これらの事情から、劉備は呉に宣戦を布告し、222年には勢いに乗って夷陵(いりょう)まで一気に攻めてきた。ところが、これは蜀を呼び込む都督(ととく)陸遜(りくそん)の計略で、風向きを利用した火攻めの反撃に、劉備は敗走を余儀なくされた。

 223年、劉備の崩御でこの戦いは本格的に終結した。そこで早速なされたのは、呉と蜀の関係改善を図る国交の回復だった。

コメント0

「サテライト「三国志」群像」のバックナンバー

一覧

「「諸葛家を栄えさせるのも滅ぼすのも長男であろう」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

日経ビジネスオンラインのトップページへ

記事のレビュー・コメント投稿機能は会員の方のみご利用いただけます

レビューを投稿する

この記事は参考になりましたか?
この記事をお薦めしますか?
読者レビューを見る

コメントを書く

コメント入力

コメント(0件)

ビジネストレンド

ビジネストレンド一覧

閉じる

いいねして最新記事をチェック