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「呉越同舟も、こうなれば乙だ」

【200】第四十二章 諸葛誕5

2013年6月14日(金)

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【199】第四十二章 諸葛誕4から読む)

 魏の皇帝は、曹髦(そうぼう)に決まった。

 彼の即位とともに、元号は正元(せいげん)と改められる。

 彼は文帝(曹丕)の孫に当たるが、まだ思春期の少年である。しっかりした政が出来るようになるまでには、まだ5年以上の時間がかかるだろう。

 「それまでに、禅譲を迫られましょう」

 もう誰の目にも、司馬氏が魏帝国を乗っ取るつもりだと見えていた。それゆえ、彼らに反発する勢力が、どこかで狼煙(のろし)をあげても何ら不思議はなかった。

 諸葛誕もそう思っていたが、実際に年が変わった正元2年(255年)、寿春(じゅしゅん)で反旗を翻した人物の名に愕いた。

 毋丘倹(かんきゅう・けん)と文欽(ぶんきん)だったからだ。前者は諸葛誕と武官としての持ち場を交替し、呉の諸葛恪を撃退して戦果を上げている。

 また、文欽にしても、そこそこ出世しているのを、棒に振ることもないと思われた。だが、よく考えてみると、毋丘倹は明帝(曹叡)と親しく、文欽は曹操や曹爽と同郷であることで優遇されてきた。

 それならば、魏へ忠誠を示すため、司馬師へ刃を向ける道理もあった。それでも愕いたのは、諸葛誕にも心を同じくして、挙兵に協力せよと呼び掛けてきたことだ。

 毋丘倹は夏侯玄と親交があったらしいが、それだけのことだ。文欽に至っては、悪い心証しかない。ましてや、このような男と心中するいわれなどなかった。

 逆に司馬師から鎮圧要請が来て、それに従った。彼は予州から寿春に向かい、司馬師の本隊とは別行動で軍を進めた。

 司馬師本隊の軍は10万近い大軍であった。項城まで進んできた毋丘倹と文欽の軍兵は、それを見た途端どんどん逃亡していく。呉の将軍孫峻が救援に来たので、諸葛誕は鄧艾(とうがい)に対応させ、自身は寿春を攻撃した。

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「「呉越同舟も、こうなれば乙だ」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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