• BPnet
  • ビジネス
  • IT
  • テクノロジー
  • 医療
  • 建設・不動産
  • TRENDY
  • WOMAN
  • ショッピング
  • 転職
  • ナショジオ
  • 日経電子版

「夷州などで人狩りをしたという噂がある」

【203】第四十三章 トウ艾3

2013年6月19日(水)

  • TalknoteTalknote
  • チャットワークチャットワーク
  • Facebook messengerFacebook messenger
  • PocketPocket
  • YammerYammer

※ 灰色文字になっているものは会員限定機能となります

無料会員登録

close

【202】第四十三章 鄧艾2から読む)

 鄧艾(とうがい)が運河開設に励んでいるのを、呉側が知らぬはずはなかったろう。無論、当初は秘密裏に事を運んでいても、行商の噂から密偵が観察し、呉の首脳陣へ報告が行くものだ。

 運河開設や新田開発で増産される食糧は、当然ながら呉との戦いに使われよう。それゆえ、彼らがそれを黙って見ているはずなどない。魏も、そこは織り込みずみだ。

 呉にとって間の良かったのは、蜀の諸葛亮が『出師の表』を皇帝(劉禅)に上書して、北伐を始めてくれたことだ。魏側が、関中(長安のある渭水盆地)へ軍兵を集中してくれれば、長江を渡って合肥新城(がっぴしんじょう)や寿春のある揚州へ、攻め上がりやすくなる。

 もっとも、魏側も、そう易々とは侵攻は許さない。呉と蜀、2国を合わせたより以上の、軍事力も経済力もあるからだ。双方とも、余程上手く連絡を取り合わねば、互いに攻め倦(あぐ)ねよう。

 実際、呉側が攻撃を成功させたのは、228年に、陸遜が曹休を罠に掛けて破った一件ぐらいだ。この戦いで、洛陽へ帰還した曹休は、背中に悪性腫瘍を病んで他界している。

 このように連携を図れば、呉は魏の事業を妨害できるのだ。諸葛亮の北伐は足かけ7年もつづいた。

 それに呼応するため、青龍元年(233年)、呉は皇帝孫権が親征して攻撃を仕掛けた。だが、船から岸部へあがって寛いだところを、魏の将軍満寵に奇襲され、這々の体で退却している。

 つづいて青龍2年(234年)にも、諸葛亮が五丈原へ侵出したので、義理立てでもあるまいが、孫権が自ら合肥新城へ親征し、陸遜や諸葛瑾を荊州の夏口から進撃させた。

コメント0

「サテライト「三国志」群像」のバックナンバー

一覧

「「夷州などで人狩りをしたという噂がある」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

日経ビジネスオンラインのトップページへ

記事のレビュー・コメント投稿機能は会員の方のみご利用いただけます

レビューを投稿する

この記事は参考になりましたか?
この記事をお薦めしますか?
読者レビューを見る

コメントを書く

コメント入力

コメント(0件)

ビジネストレンド

ビジネストレンド一覧

閉じる

いいねして最新記事をチェック

日経ビジネスオンライン

広告をスキップ

名言~日経ビジネス語録

意外なことに、伝統的な観光地が 訪日客の誘致に失敗するケースも 少なからず存在する。

高坂 晶子 日本総合研究所調査部主任研究員