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「古希を越えて、御盛んな」

【210】第四十五章 鍾会1

2013年7月1日(月)

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【209】第四十四章 姜維5から読む)

 「お祖父(じい)ちゃんがきたよ」

 鍾会(しょうかい)には幼児時代の記憶が、いつまでもあった。父親の鍾ヨウ(揺の旁/系)が傍へ来ると、遊び仲間の誰もがそう言ったからだ。

 実際、鍾会が生まれた黄初6年(225年)当時、鍾ヨウは75歳だった。それゆえ、2人が連れ立っていると、祖父と孫にしか見えなかったであろう。

 それでも大人たち、特に宮廷人や官僚は、鍾ヨウの正体を知っていたので、間違っても鍾会に「お祖父ちゃん」などと言うことはなかった。彼は押しも押されもしない、魏帝国の元老であったからだ。

 第三十二章でも扱ったが、鍾ヨウは肉刑の復活を主唱し、献帝(劉協)を擁して許都にいる宮廷人を震え上がらせた経緯がある。それは、時代を逆行させようとしたのではない。

 当時、魏公(魏地方に領土を持つ貴族)だった曹操を国王に昇格させるためだったのだ。肉刑ではなく徳によって世を治めるためには、最高実力者の魏公を魏王にすれば、その権威から百姓(庶民)は言うことを肯(き)くはずだと迫ったわけだ。

 この論法に宮廷人は、自身が肉刑に陥ってはと、鍾ヨウの提案に乗ったと言われる。これは、後漢の献帝から禅譲を受ける前提条件を整える鍾ヨウの深謀遠慮だった。

 彼が魏に加担したのは、漢に反発を感じていたからかもしれない。鍾氏の先祖は鍾離昧(しょうり・ばつ)だと言われている。それは劉邦と項羽の漢楚戦争の際、項羽方として活躍した部将である。

 彼は、戦争が決着した後も劉邦に追い回され、韓信に匿ってもらった。だが、その韓信も保身のため彼を劉邦へ差し出そうとしたので、自害したと言われている。

 同様な立場の季布(きふ)が、劉邦に受け入れられて天寿を全うしたのに比べれば、哀れな末路と言わねばなるまい。

 これ以降の鍾離氏は、苗字から「離」を消して、鍾氏として生きねばならなくなった。それゆえ鍾ヨウは、漢帝室を心の隅では嫌っていた。だから、魏が漢を滅ぼすのを、身贔屓(みびいき)で心待ちにしていたのだ。

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「「古希を越えて、御盛んな」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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