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「死んだ振りの司馬太傅に一杯喰ったな」

【211】第四十五章 鍾会2

2013年7月2日(火)

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【210】第四十五章 鍾会1から読む)

 「あなたは、鍾ヨウ(揺の旁/系)の息子である自覚を、常々お持ちなされよ」

 母の張氏は未亡人になっても、誇りが高かった。それは鍾ヨウの身分と、鍾会の聡明さが背景となっている。

 4歳児に『孝経』を教えた後も、7歳で『論語』、8歳で『詩経』、10歳で『尚書』、14歳で『易経』を、総て暗誦させるまでになった。それだけでも、教育熱旺盛で孟母を地でいった観がある。

 また鍾会も、それらのいわば教科書を、ただ呪文のごとく棒読みで唱えるだけではなく、内容もしっかり把握していたのだ。

 その出来の良さから、鍾会は16歳で太学に入学した。現代風に言えば、飛び級で中学から高校を抜いて、一挙に大学へいくような感じであったのだろう。

 彼が勉学に励んでいたのは、明帝(曹叡)が君臨していた時代である。諸葛亮が北伐を行い、それを司馬懿(しばい)が受けて立っていた。また、公孫淵が遼東半島で『燕』を建てて独立したりもした。

 魏は、それらを跳ね返し、呉の侵攻も完全に抑えていた。

 太学に入った鍾会は、孫武(そんぶ)や孫ピン(月/賓)の兵法を学ぶようになった。剣や槍、騎射の訓練もして、操練にも参加した。だが、彼に打って付けの仕事は、頭脳を使った策戦の立案と指揮だと判ってきた。

 その頃(239年)、明帝が崩御して、曹芳が即位した。8歳の少年だったので、司馬懿と曹爽が後見役として据えられた。だが、曹爽一派が勢力を延ばし、司馬懿は政権の中枢から外されて体調を壊した。

 「こんなことで、蜀や呉が攻めてくれば、どの将軍を頼りにすればいいのだ?」

 つまり、歴戦の勇者(司馬懿)が欠ければ、魏軍の差配は誰がするのかということだ。司馬懿以外に、軍に号令をかけられる者は誰もいない。この心配に、曹爽が顔をしかめる。

 「ここで、武勲を立てられるようにせねば」

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「「死んだ振りの司馬太傅に一杯喰ったな」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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