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「司馬大将軍の勝利ですが…」

【217】第四十六章 司馬昭3

2013年7月10日(水)

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【216】第四十六章 司馬昭2から読む)

 曹爽一派を全員処刑して、司馬氏の政権掌握を果たした司馬懿だったが、これで気持の張りを喪ったのか、嘉平3年(252年)に他界した。

 大きな仕事を幾つも熟(こな)したという点では、諸葛亮を完全に抜いて、曹操に匹敵したろう。

 だが、魏朝に忠誠を誓う者らにとっては、帝国内における奸臣と映っているようだ。総領は兄の司馬師が嗣いだが、司馬氏に刃向かう動きは司馬懿の存命中からあった。

 最初は同じ年(252年)の初め、王凌と令孤愚が曹彪を担ぎ出そうとしたものだが、司馬懿が先手を打って王凌を捕らえている。

 その後は嘉平6年(254年)、成人した皇帝芳を擁すべく皇后の父張緝(ちょうしゅう)や李豊、夏侯玄らが司馬師の誅殺を画策したが、事前に露見して捕らえられ処刑されている。

 この一件で皇帝芳は廃位され、曹髦(そうぼう)が新皇帝に迎えられた。この人物については、司馬師よりも郭太后(明帝=曹叡の皇后)の意向が強かったと言われている。彼はこのとき12歳だったが、聡明との誉れが高く、将来曹氏の復権を托したかったのかもしれない。

 また、彼女の意向を肯いたのは、曹爽を政権座から降ろすとき、彼女の権威を借りたからである。

 しかし、この後も司馬氏への反乱はつづいた。正元2年(255年)には毋丘倹と文欽が反乱を起こした。司馬師は大将軍として自ら鎮圧に出向いたが、司馬昭は洛陽で留守を守っていた。

 「司馬大将軍の勝利ですが……」

 報告に来た腹心の賈充(かじゅう)は、奥歯に物が挟まったようで歯切れが悪い。

 「どうした?」

 「大将軍の瞼(まぶた)に出来た腫れ物が、熱を持って痛みだしたようで、帰還されれば直ぐに手術されるようです」

 このような経緯から腫れ物の切除が行われたが、出血量が意外に多く、輸血技術もなかったため、司馬師は呆気なく卒した。

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「「司馬大将軍の勝利ですが…」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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