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「権力を諸葛将軍に握られて哀れなものよ」

【229】第四十九章 孫晧1

2013年7月29日(月)

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【228】第四十八章 劉禅5から読む)

 いわゆる二宮事件が進行する時流の中で、孫晧は育った。彼が生まれた赤烏5年(242年)は、父親の孫和(そんわ・孫権の三男)が皇太子に冊立された年であり、彼の弟孫覇(そんは)も魯王とされている。

 ここまでは、公子に対する普通の処遇だったのだ。ところがその後、孫覇にも孫和と同等の扱いをしたことで、混乱が起こった。

 例えば屋敷の広さや召使いの数、役所からの給金など、皆同じだったのである。すると家臣の間では、いずれは太子の箝(す)げ替(か)えがあるのではとの観測が広まる。

 勢い家臣団は、二派に分かれて啀(いが)みあうことに発展した。このような状況を、皇帝権が抛擲(ほうてき)して手を拱いていた事自体、彼の錯乱振りを如実に示してういた。

 嫦娥散(じょうがさん)の中毒が、本人の耄碌(もうろく)を助長したのであろう。また、孫和の生母王氏と折り合いの悪い全公主(孫魯班)が、孫和の悪口を告げると、皇帝権はそれを鵜呑みにしていた。

 彼女は、そんな皇帝権の状況を上手く利用して、呉の宮廷を混乱させた。皇帝権を諫言した何人もが命を失ったのは、以前記述したとおりだが、最大の犠牲者は陸遜だった。

 9年もつづいた混乱で、皇帝権は当事者能力を亡くしていった。最後には孫和と孫覇の双方に構わなくなり、末っ子(孫亮)を溺愛し始めていた。

 孫晧の記憶にあるのは、このあたりからである。母の何姫は孫和の妾で、妃は張夫人といった。張夫人は将軍諸葛恪の姪で、騎兵の娘だった母とは格式が違った。それゆえ、同じ東宮で寝起きしていても、張夫人の息子たちとは着物も食事も同等ではなかった。

 彼は子供なりにそれらが不満だったが、何姫に諭されて黙ってはいた。

 ところで、父孫和は皇太子でありながら、いつも浮かない顔をしており、孫晧は不思議に思っていた。それが赤烏13年(250年)になって、突如皇太子を廃され、叔父に当たる孫覇は処刑されてしまった。

 後々孫晧にも解ることだが、孫覇が極刑に処せられたのは、讒言と誣告があまりにも多かったからだ。当然ながら、全奇、呉安、孫奇、楊竺といった側近らも処刑された。

 ただ、事件の元凶だった全公主には、何らの咎(とが)めもなかった。

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「「権力を諸葛将軍に握られて哀れなものよ」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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