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「呉の国力は更に落ちるだろう」

【236】第五十章 司馬炎3

2013年8月7日(水)

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【235】第五十章 司馬炎2から読む)

 司馬炎には、転がり込んできたような皇帝位で、棚から牡丹餅(ぼたもち)の印象がある。

 以前、司馬昭が魏王となったとき、太子をどうするか周囲に問われた。そこで、彼は司馬攸(しばゆう)を推薦した。

 自らは司馬懿の次男であるため、本来は長男司馬師の系統が総領を嗣ぐべきだと、固定観念のように信じていた観がある。

 だが、司馬師には男児がなく、司馬昭の三男攸を養子に遣ったのだ。ところが、司馬師が卒した当時は8歳で一族を統(す)べられず、司馬昭が総領となった経緯がある。

 「兄上の血筋に戻せば、いかがかと存ずる」

 親族会議で彼が言うと、一族は否定する。今となっては、司馬昭の功績が大きいからだ。

 「王の長男が太子になって当然だ。それに攸は司馬師の養子とはいえ、実質的に炎の弟ではないか。ならば、何の問題もなかろう」

 司馬昭の態度は、家臣の中でも論議を呼んだ。一時は両派に分かれて、分裂状態が懸念されたが、司馬昭の腹心だった賈充や裴秀(はいしゅう)、王沈(おうちん)、羊コ(示/古)、荀勗(じゅんきょく)、石苞(せきほう)、陳騫(ちんけん)といった有力な面々が、早くから司馬炎への指示を打ち出した。

 そのため、敢えて対立しようという勢力はなかった。だが、大勢は決まったものの、司馬昭は心配でならなかった。

 それは、曹丕が魏皇帝になった後、曹植に対しての仕打ちが、余りにも非道かったからだ。何度も領地を換え、その度に痩せた土地を宛(あて)がった経緯がある。

 だから、くれぐれも弟を虐めぬよう、司馬炎に頼み込むという一齣(ひとこま)があった。それが、彼の臨終の直前だった。

 それから数カ月後に禅譲の儀式が執り行われた。それも、賈充ら司馬炎の後援勢力が、皇帝奐へ大いに働きかけたからだ。それは成熙2年(265年)の暮れで、魏が滅んで晋が建国されたのだ。

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「「呉の国力は更に落ちるだろう」」の著者

塚本 青史

塚本 青史(つかもと・せいし)

作家

1949年岡山県倉敷市生まれ。同志社大学卒業後、印刷会社に勤務。イラストレーターとしても活躍。日本作家クラブ理事。父、塚本邦雄創刊の歌誌「玲瓏」発行人。近著に『李世民』。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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