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エワルドの恍惚と絶望

アンドロイド/サイボーグ考(21)~リラダン『未来のエヴァ』を読む(16)

2013年10月15日(火)

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 エワルド卿は二人でやり直そうと訴えかけるが、アリシアは答えない。その沈黙は、彼が自分のために辛い思いをしていることを知った苦しみのためだった。アリシアは涙を流す。自分のために涙を流してもらったことのないエワルド卿の心は感動に戦慄するのだった。アリシアが理想の女性になった! のだと。そしてハダリーのことを突然に思いだし、激しい後悔の念に駆られるのだった。そしてそのことを口にした瞬間に、彼は驚愕の一言を耳にするのである。


******

 ミス・アリシア・クラリーは口をつぐんだままである。
 エワルド卿は、悲しげにほほ笑みながら、つづけた。「でもわたしがあなたに言っていることは、あなたには理解を越えたことなのかな。でも、それならどうしてあなたは『何かおっしゃりたいことがあるのではないのですか』と尋ねたのですか。結局のところ、どう言えば、あなたにキスをしてもらえるのだろうか」。

 彼がアリシアにキスについて語ったのは、もうずいぶん久しく前のことだった。おそらく暮れなずむ夕闇と若さのもつ磁力に影響されたものか、若い娘はエワルド卿のやさしい抱擁に、これまでにない深い思いをこめて、身を委ねているようだった。

 それとも彼女は、情熱に燃えた言葉の甘く、燃えるような彼のつぶやきを、理解したのであろうか。彼女の睫から、一滴の涙が白い頬にしたたり落ちた。
 「それではあなたは、苦しんでいらっしゃるのですね、こんなわたしのために」と、彼女はささやくように言った。

 この感動に、この言葉に、若者は慄然とした。言葉に尽くしがたい驚きの思いに動かされたのである。心を激しい恍惚感が貫いた。たしかに彼はもはや別人のようなあの女性、あの恐るべき女性のことなど考えていなかった。このただ一言の人間らしい言葉が、彼の魂のすべてを動かし、わけの分からぬ希望を呼び覚ましたのである。

 「ああ、愛しい人よ!」。彼はほとんど狂おしい気持ちでつぶやいた。
 彼の唇が彼女の唇に触れた。かつては彼の苦悩を慰めてくれたこともあったこの唇に、ついに贖いをなしたこの唇に。彼は、これまでの耐え忍んできた長い退屈な歳月をすっかりと忘れ去った。彼の愛がよみがえったのである。彼の心に、純粋な歓喜が無限の甘さをともなってわき出てきた。

 彼の恍惚は、唐突で、しかも予想されていなかったものだった。彼女のこの一言が、空を掃く一陣の風のように、かれの憂愁と苛立ちに満ちた思いを払い除けた。彼は生まれ変わったかのようだった。ハダリーとあの空しい蜃気楼は、もはや彼の記憶から遠ざけられていた。

 二人はしばらくのあいだ、沈黙のうちに抱き合っていた。若い娘の胸が膨らみ、その酔わせるような甘い香りが、彼の心を乱した。彼は両腕の中にいる彼女を強く抱き締めた。
 愛しあう二人の上に、空は清明に澄み、街路樹の葉の彼方で星々が輝いていた。闇が深まり、崇高になってきた。若者の魂は恍惚としてわれを忘れた。世界の美しさの中でよみがえる思いだった。

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「エワルドの恍惚と絶望」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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