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機械と人間の比較

アンドロイド/サイボーグ考(30)~バトラー『エレホン』を読む(4)

2013年12月17日(火)

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人間と機械の能力の比較の続き

 さて「機械の書」はこのように機械の能力についてのさまざまな考察の後に、第二四章に入り、人間の能力と機械の能力を比較しながら、人間がいかに機械に依存しているか、機械が人間のさまざまな能力を代用するようになっていることを指摘する。この比較は、すでに語る能力について行われてきたが、さらに人間の特に重要な能力である見る能力と計算する能力について行われる。

 人間は外部の対象を見て反応する能力があると言われる。しかし人間の視力には限りがあり、ある限度を超えると、道具の力を借りる必要がある。遠くの星は望遠鏡でなければ見えないし、微生物は顕微鏡でなければ見えない。人間はこれらの道具にきわめて依存しているのである。

 そして計算する能力についてはさらに明白だろう。ギリシアの時代から人間は理性をもつ動物として定義されてきた。そしてラテン語では理性はラティオ、すなわち計算する能力という意味ももつ。人間が他の動物と違うのは、この計算する能力があるからだとも言えるのである。しかしコンピュータ、すなわち計算する機械が登場するとともに、人間は自分で計算することをやめてしまった。日本人もそろばんがあったころまでは暗算する能力をもっていたが、電子の力で計算する機械が登場したとたん、この能力はあっというまに衰退したのだった。今ではぼくたちは計算するとなると、「計算機械に飛びつく」のである。

人間と機械の能力の比較の総括

 そしてこれらの語る言語能力、見る視覚、計算する理性のどれをとっても、人間よりも機械のほうが優れている可能性があることが指摘される。機械はたしかに言語をもたないが、機械は言語なしで意志を伝達できるかもしれないのである。言語は人々のあいだで誤解を生む源泉なのである。機械は人間が見ることのできない遠くのものや小さいものをみせてくれる。そして機械の計算する能力は人間をはるかに上回ることは、もはや自明のことなのだ。

器官の集合体

 さらに著者は、人間の身体の機能の全体を考察すると、それはさまざまな器官が集まって働いているのであり、さまざまな機械類で構成されている都市のように見えることを指摘する。人間の身体は、こうした器官の集合体として、一つの機械のようなものではないのだろうか。

 これは生物学的にも正しいところがある。人間は体内に多数の微生物を生存させており、そうした微生物なしでは生活できないほどなのである。たとえば「腸内細菌は、草食動物やヒトのような雑食動物において食物繊維を構成する難分解性多糖類を短鎖脂肪酸に転換して宿主にエネルギー源を供給したり、外部から侵入した病原細菌が腸内で増殖するのを防止する感染防御の役割を果たすなど、宿主の恒常性維持に役立っている」(ウィキペディアの「腸内細菌」の項目から)という。

 そもそも人間の身体のエネルギー源でもあるミトコンドリアは遠い昔に身体に取り入れられた異種の細菌であるといわれる。そうしてみると、人間の身体はさまざまな生物の集合体であり、ひとつの合成機械のようにも見えてくるのである。

コメント1件コメント/レビュー

「しかし別に疑問が生まれてくる、人間の眼というものは、人間の頭脳の背後に控えている魂が、外を眺めるために使う機械ではないのだろうか。人間が死んだ後もしばらくは、生きている眼と同じように、死んだ眼でも外にあるものを見ることはできるものだ。見ることができないのは、死んだ眼そのものはなく、その眼によって見ることができない人間なのだ。われわれ人間に、世界を超えた無限の世界な存在を示したのは人間の眼だろうか、遠くを見るための機関[望遠鏡]ではないだろうか道具でなくて機械ですか?死んだ人間と一体化している「死んだ眼」でも外にあるものを見られるなら、それは死んだ人間が見ているとも言えませんか?網膜に写っていることを「見える」と言うなら、死んだ人間も見えていると言えるはずです。言葉の定義が曖昧ですね。これで哲学?「織物をする機関は、縫い目を一つでも抜かすことはない」生地が変われば幾らでも抜かしますが?「棒で叩いて目覚めさせる必要もない」その代わりにスイッチを入れませんと。しかも人間同様、直ぐにフルには動けません。「どんな広い川の上を歩いても沈むことがない」意味が分かりません。単に水の上じゃダメなのかとか、歩くって何?とか。(2013/12/17)

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「機械と人間の比較」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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「しかし別に疑問が生まれてくる、人間の眼というものは、人間の頭脳の背後に控えている魂が、外を眺めるために使う機械ではないのだろうか。人間が死んだ後もしばらくは、生きている眼と同じように、死んだ眼でも外にあるものを見ることはできるものだ。見ることができないのは、死んだ眼そのものはなく、その眼によって見ることができない人間なのだ。われわれ人間に、世界を超えた無限の世界な存在を示したのは人間の眼だろうか、遠くを見るための機関[望遠鏡]ではないだろうか道具でなくて機械ですか?死んだ人間と一体化している「死んだ眼」でも外にあるものを見られるなら、それは死んだ人間が見ているとも言えませんか?網膜に写っていることを「見える」と言うなら、死んだ人間も見えていると言えるはずです。言葉の定義が曖昧ですね。これで哲学?「織物をする機関は、縫い目を一つでも抜かすことはない」生地が変われば幾らでも抜かしますが?「棒で叩いて目覚めさせる必要もない」その代わりにスイッチを入れませんと。しかも人間同様、直ぐにフルには動けません。「どんな広い川の上を歩いても沈むことがない」意味が分かりません。単に水の上じゃダメなのかとか、歩くって何?とか。(2013/12/17)

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