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見えざる「瓶」の中に生きて

アンドロイド/サイボーグ考(77)~ハクスレー『すばらしい新世界』を読む(21)

2014年12月9日(火)

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 ジョンと総統の対話がつづきます。総統が、理想国ではシェイクスピアを読ませるのがどれほど無駄であるかを強調します。しかしジョンは納得しません。

*      *      *

 野蛮人はしばらく黙って考えていた。そして「それでも、『オセロ』は素晴らしいですよ。あんな触感映画よりもはるかに優れていますよ」と言い張った。

 「もちろん素晴らしいさ」と総統は認めた。「しかしそれは、われわれが社会の安定性のために支払わねばならない代価というものなのだ。幸福と、いわゆる高級な芸術と呼ばれるもののどちらかを選ばねばならないのだ。われわれは高級な芸術と呼ばれるものを犠牲にして、その代わりに触感映画を選び、芳香オルガンを残したのだ」

 「でも、あんなものはまったく無意味なものじゃないですか」
 「あれにはあれなりの意味というものがあるのさ。観客に心地好い感情をたっぷりと与えてやるのだから」
 「でも、あれは、あれは『白痴の語る物語』[1]ではないですか」

 総統は笑い声を立てた。「君は友人の[ヘルムホルツ・]ワトスン君にとても失礼なことを言っているのだよ。彼はわれわれの卓越した情緒科学者の一人なのだがね」

 「でも、彼の言っていることは正しいのです」とヘルムホルツは陰鬱な口調で口をはさんだ。「実際に、あれは愚かしいことなのです。何も語るべきことがないのに、語っているのですから」
 「そのとおりだ。それだからこそ、素晴らしい才能が求められるのさ。ごく少量の鋼鉄から、安自動車を製造するようなものさ。たんなる感覚しかないところから、芸術作品のようなものを作りあげるのさ」

 野蛮人は首を横に振った。「わたしには何ともひどいこととしか思えません」
 「たしかにひどいことさ。不幸の過剰補償と比較すれば[2]、実際の幸福なんてものはかなり醜悪なものに思えてくるものさ。それも社会の安定性というものは、不安定性と比較すると、見劣りのするものだ。満足して暮らしている人は、不幸と勇敢に戦っている人のような輝かしさをそなえているわけではない。誘惑に抵抗して苦闘することもないし、情熱や懐疑に打ち負かされて致命的な傷を負うこともない。幸福には偉大さはまったく欠けているものなのさ」

受胎操作の意味

 野蛮人はしばらく黙って考えていたが、やがて「わたしも、幸福は偉大なものではないと思います。しかしあそこで働いていた双子たちのような惨めな状態が必要なのでしょうか」。ジョンは組み立てラインで働いていた無数の小柄な双子たちのイメージを拭い去ろうとでもするかのように、片手で両眼をこすった。それに、ブレントフォードのモノレール駅の入り口でならんでいた多くの人々の列や、リンダの臨終の際にみかけた人間の屑のような人々、そしてさきほどソーマを投げ出したときにジョンを襲ってきた人々が、みんな同じような顔をしていたことを思い出したのだ。包帯をした自分の左手を眺めて、ジョンは「ひどい!」と叫んだ。

 「それでもきわめて有益なのだよ。たしかに君には[受胎卵の操作をする]ボカノウフスキー法で受胎させた人々を好きにはなれないかもしれない。それでも彼らこそが、ほかのすべてのものの基礎になっているのだ。彼らは、国家というロケットを安定して飛行させるためには不可欠なジャイロのようなものなのだ」。総統の深みのある声は、人々の心を戦慄させるように震えた。その手の動きは、宇宙空間の中を停止せずに進みつづける宇宙船の動きを示しているかのようだった。総統の演説は、シンセサイザーの音楽のように響いた。

[1]シェイクスピア『マクベス』第四幕第五場。マクベス夫人が死んだことを伝えられたマクベスが人生を回顧して語る言葉。そのすぐあとに、ジョンの前の台詞と同じことが語られる。「何やらわめきたてているものの、何の意味もありはしない」(『シェイクスピア全集』第七巻、筑摩書房、281ページ)。

[2]補償は精神分析の用語で、心的に反対方向に補おうとする営み。たとえば、自分のうちに悪しき心があると意図的に善人としてふるまおうとする傾向である。不幸があれば、それを過剰なまでに補おうとして、強い幸福感が生まれるものだと、総統は考えている。至福の感情は、不幸がないと生まれないものだと。

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「見えざる「瓶」の中に生きて」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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檜山 敦 東京大学先端科学技術研究センター 講師