コンピュータを呑む

【ITと酒】和洋中の料理、酒や菓子、何でも頼めた幻の店

「注文を断るのは嫌」、大型冷蔵庫3台を用意

文:谷島 宣之 12.11.2014

その時欲したものを注文すると、その通り出してくれるレストランがあった。フランス料理でも羊羹(ようかん)でも、何でも頼める。「できるかな」と客に問われ「できません」と答えたくない店主が経営していたからだ。

その不思議なレストランに初めて入ったのは20年以上も前、1991年か1992年のどちらかだったと思う。店名を小さく書いた看板が付いていたが外から見ると何の店であるかまるで分からない。ドアを開けると小部屋があり店内に入るにはさらにドアを開けなければならない。小部屋には花が飾られているだけで案内はなかった。

そのレストランに案内してくれた外資系コンピューターメーカー大手の幹部は席に着くと、やってきた男性の店員にいきなり料理を頼むとこちらを向き、「君も好きなものを頼め」と言った。面食らっていると「ここは頼めば何でも出してくれる。メニューを見る必要はない」と説明してくれた。思いついたものを頼んだのだが何であったか忘れてしまった。クリームコロッケだったかもしれない。

入口の狭さに比べると店内は広かった。着いたテーブルからかなり離れたところに隣のテーブルが置かれていた。カラオケセットはなくそのかわりピアノがあったはずだが定かではない。照明はやや暗め、内装には抑えた色調が使われており、落ち着いた雰囲気であった。店内に他の客がいなかったので余計広く感じられたのかもしれない。

きょろきょろしていると女性がテーブルにやってきて幹部に挨拶した。その人が店主であり、注文をとってくれた男性と厨房にいるコック、3人でやっているという。芸がない質問だと思いつつ聞いてみた。

「何を頼んでも出していただけるのでしょうか」

「色々な注文を出す方が見えるのでご希望に沿うようにしています。もちろん、お応えできないこともあります」

店主がテーブルから離れるとコンピューターメーカーの幹部は「大抵のものは出してくれる。ああ見えて、あのママは負けず嫌いなところがあって、『できるか』と聞かれたら『できません』と言いたくないらしい」と補足してくれた。

大型冷蔵庫3台で顧客に応える

その晩は頼んだ料理を食べてお開きになったが「何でも出してくれる店」というのは気になるものである。機会を見つけてそのレストランを訪れるようになった。調査をするつもりはなくても他の客が何を食べているのか、つい観察してしまう。

地下鉄の駅から少々遠く、いきなり入りにくい門構えでもあり、その店には常連しかこない。入ってくるなり「いつもの」と頼む人もいれば、かなり遅い時間にやって来てお茶漬けだけを食べて帰る人もいた。

団体がやってくることもあった。あるコンサルティング会社の経営陣は定例の長い会議が終わった後、連れだってそのレストランを訪れ、夕食をとっていた。経営陣は思い思いのものを頼むのだが、店は注文をすべて受けていた。

マスター役の男性店員に尋ねてみると、コックは西洋料理の修業をした人だったが客の注文に応じて専門の西洋料理はもちろん、中華でも和食でも作るようになったそうだ。冬には鍋料理を作ってくれる。「ラーメンと餃子はどうでしょう」と聞くと「召し上がる方は多いです」という返事だった。

それにしても食材をどうしているのだろうか。「このくらいのテーブル数の店にしては相当大きな冷蔵庫が3台ありまして、常連の方が頼むものにはまず応えられる用意をしています」。

焼き魚と味噌汁、お新香、ご飯、そして羊羹とお茶

その店を紹介してくれたコンピューターメーカー幹部と再び、会食したときのことだ。幹部のほかに彼の側近が同席した。幹部も側近も押し出しが良く、目立つ人であった。彼らの様子と店の雰囲気を考え合わせると、フランス料理とワイングラス、あるいはフルーツ盛り合わせとブランデーグラスがテーブルに並びそうだったのだが、2人が頼んだのは焼き魚と味噌汁、お新香、ご飯であった。

美味しそうに食事をする2人を前に筆者はつまみになるものを頼み、ウイスキーの水割りを飲んでいた。食事を終えた2人は「この後はやはりあれだな」と言って男性店員を呼び、デザートを頼んだ。

運ばれてきたのは羊羹(ようかん)とお茶であった。繁忙期に現場の社員をねぎらうために大量のアンパンを買って配ったことがあるなど、彼ら2人は見かけに似合わず甘党だった。

羊羹とウイスキー、特にジャパニーズ・ウイスキーとの相性は良いと言われているそうだが、羊羹を勧められることはなかった。それに、残念ながら当時の筆者は小豆餡を苦手としていた。幸せな表情をして羊羹を食べる2人を眺めつつ、ただウイスキーを飲んでいた。

「休みたい」「休めます」

「『できるか』と聞かれて『できません』と言いたくない」店主の姿勢は料理以外でも貫かれていた。例えばその店には仮眠をする用意があった。仕事で接待をしてきた常連がやってきて少し横になってから一杯飲んだりラーメンを食べたりする。

接待を終えて疲れたのならさっさと帰ればよいという意見があるだろうが、接待には接待なりの気苦労があるようで、落ち着ける店で解消してから帰宅したいと思う人もいる。「今日はくたびれた。ちょっと休みたいくらいだ」と言った常連に対し、「うちはレストランですから休めません」と店主は言いたくなかったのであろう。

そういう店であったから長年にわたる客がひいきにしていた。とはいえ、いつかは仕事から引退し、どうしても足が遠のいてしまう。それを補う新たな客が付けばよいが、紹介されない限り来ないから、なかなか増えるものではない。

常連となっていたコンサルティング会社の幹部たちが店の将来を心配し、食事中に議論を始めたことがあった。もっとも食事をしながらであったせいか、次のようなやり取りが繰り返されただけで改革案をまとめることはできなかった。

「メニューを掲示し、通りすがりの人が見られるようにする」「何でも出せることが売り物の店なのにあえてメニューを掲示するのか」

「一定の回数来店した客に何らかのサービスをする」「回数にかかわらず来店客にはフルカスタムのサービスがすでに提供されている」

残念ながらこのレストラン、今はない。店が入居していたビルのオーナーが建て替えを希望し、いったん閉店することになった。その後、再開には至っていない。

※冒頭の写真はイメージです

谷島 宣之(やじま・のぶゆき)
日経BPビジョナリー経営研究所・日経BPイノベーションICT研究所
1985年、日経マグロウヒル社(現・日経BP社)入社、日経コンピュータ編集部に配属。2007年から日経ビジネスオンライン、日経コンピュータ、ITproの編集委員。2009年1月から日経コンピュータ編集長。2011年6月から日経BPビジョナリー経営研究所研究員。一貫してビジネスとテクノロジーの関わりについて執筆している。