インタビュー 情熱と挑戦の先に

【宮澤崇史】母に自らの肝臓を提供したプロサイクリストの凄み

活躍の源泉を追う 宮澤 崇史氏(レモネード・ベルマーレ監督/元プロ自転車競技選手)の場合 第1回

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:菅野 勝男 04.02.2015

母親に肝臓を提供しつつも第一線に復帰することに成功し、名だたる記録を残したプロの自転車競技選手、宮澤崇史氏。プロ意識を保ちつつも、「楽しむ」ことに忠実であり続けたアスリートの原点を探る。

母の愛情を受けレースに初参加

中学2年生の時、テレビで放映された「ツール・ド・フランス」をたまたま観た。宮澤には大きな衝撃が走った。

「大好きな自転車が、プロのスポーツとして成り立っている!」

ツール・ド・フランスは、毎年7月に23日間の日程で行われる自転車のプロロードレースである。フランスおよび周辺国を舞台にして、総走行距離約3300km、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。最初の大会は1903年と歴史は古く、「世界最大の自転車レース」と言われ、最高峰ともうたわれている。

「自転車で、雄大な山々を走り抜け、ものすごいスピードで街の中を通り過ぎる。沿道のオーディエンスからの絶え間ない声援……。『この人たち、これを仕事にしている。プロなんだ!』と思ったときに、とにかく興奮していました。『自分もあの場所で走ってみたい』と」

その時はまだ、レースというものがどんなものかを理解してはいなかった。しかし、突き動かされるものを感じていた。

そして、たまたま家の近くで、マウンテンバイクのレースがあることを知る。

しかし、そんなレースに出場できるような自転車などは持っていなかった。

「そのレースに出てみたい」と宮澤は母に打ち明けた。

母・純子には、競技用の自転車を買える余裕はなかった。だがそんな折に、自分の職場でたまたま同僚が通勤に使っていたマウンテンバイクタイプの自転車を見た。純子は同僚に息子の夢を話し、事情を説明して、無理やり自転車を借りてきたのだった。

そうした母の愛情を受けて、宮澤は長野県飯綱高原で行われる自転車の競技大会に参加することになる。宮澤にとって初めての自転車競技だった。

「ツール・ド・フランスのようなレースに出てみたい。しかし中学生のような子供が出られるレースはありませんでした。たまたま近くで開催されるマウンテンバイクのオフロードレースに参加することができました。

レース当日、周りは大人ばかり。僕のような年の子供はいませんでした。参加者は、レース専用のユニフォームを着ていて格好良かった。レース前のウォーミングアップなどを見ていても、ものすごく速いので『全く歯が立たないかもしれないけど、とにかく走ってみよう!』と……。

総合で27位でした。大人の中で頑張れたということや、母の喜ぶ顔を見て、うれしかったです。でも何よりも、実はレース自体が楽しくてしょうがなかった。レース中に苦しいとか、つらいとか全く感じなかったんです(笑)。それでもう完全に火がつき、『これだ!』って自転車競技にのめり込んでいきました」

どうしてもあのツール・ド・フランスのようなロードレース自転車競技に出てみたい。そんな衝動に駆られた宮澤少年は、高額な競技用のロードタイプではなかったが、旅行用サイクリング自転車(通称:ランドナー)を、母に無理を言って買ってもらった。

*ランドナー:フランス発祥のツーリング用自転車。日帰りから2~3泊程度の旅行向けの用途で使われることが多い。

ランドナーには旅用に泥よけなどが付いている。そこで宮澤はこうしたレースには不向きのものを自分で外し、ロードレーサー風に仕立てた。そして、地元・長野の街を取り囲む山々を走り始めた。

「最初の頃は、山のちょっとした坂道もちゃんと登れずに、手で押していました(笑)。でも、いろんなところに行けるし、楽しくて、楽しくてしょうがなかったです。ある朝早く目覚めた時、無性にどこかに出かけたいと思い、『そうだ!日本海に行ってみよう!』と、無謀にも1人で出かけました。

野尻湖から妙高高原のあたりまでずっと長野から登っていき、やっと山頂まで登り着いたときに、向こう側にある麓に下りたくなりました。

『ここを下ると、その日のうちに帰れなくなる。行かない方が良い。駄目だ』。分かっていましたが、『ワーッ』と叫んで下っていました(笑)」

当時はGPS付きのスマートフォンはもちろん、携帯電話などもない時代である。それでも宮澤は、一気に、行ったことのない麓の街まで駆け降りた。「このために生まれてきたんだ!」と思えた。

広がる行動範囲、登る苦しさ、下る快感。自転車の魅力にはまり、それらすべてが楽しかった。そしてその「楽しさ」は、自分の人生を導く底知れぬパワーの源泉になっていった。

高校進学を間近に控え、自転車部がある高校を探し始めていた。運が良いことに、自宅からも通える長野工業高校にも自転車部があることを知った。『これで、いままで以上に自転車漬けの生活ができる。レースに参加できる』と思い入学。早速、自転車部を訪れた。

「意気揚々と門戸をたたきました。でもその部は、自分を入れて部員3人。自転車部というよりも『サイクリング同好会』と呼ぶのがふさわしい部だったんです(笑)。3年生1人、2年生1人……。自分が目指しているモノとは違いました。でも、自転車に堂々と乗れるだけで、うれしかったんです。

レースに出場できるということが大切でした。その頃、今度はいとこのおじさんにお願いして、ロードレース用の自転車を買ってもらいました。そして、入学してすぐの5月に行われる、有名なヒルクライムレースである『全日本マウンテンサイクリングin乗鞍』に申し込んだんです」

全日本マウンテンサイクリングin乗鞍とは、1986年に始まった伝統ある自転車ヒルクライムレースの1つで、現在は毎年8月最終日曜日に実施されている日本で有数のレースであり、日本のヒルクライム大会の最高峰とも言われている。全長20.5km、標高差1260m、平均勾配6.1%のコースを有する。ゴール地点の標高は2716mの高所であり、その苛酷さは有名である。

自転車をより速く乗りこなすためには、ペダルを高回転で回す必要がある。単純な理屈だ。しかし高回転で回せば回すほど、必然的に運動量も多くなり、その運動を支えるために、より多くの酸素を体が必要とする。つまり、筋力だけでなく心肺機能が優れていなければ、すぐに息が切れてしまうためペダルを回すことはできない。平地はもちろん、より負荷がかかる坂道などでは、その何倍もの運動量を要することになるため、苛酷としか言い様がない。

かの有名な大学箱根駅伝では、箱根の山を登る第五区間を過去にないスピードで制した選手は『山の神』と称される。自転車競技においても山登り=ヒルクライムはその条件の厳しさから、特別なレースとして位置づけられることが多い。

そんなレースに、入学して間もない宮澤は、高校生の部門でいきなり優勝を飾った。

「僕は特段にそれ相応の練習を積んできたわけではありませんでしたが、その“サイクリング同好会”の顧問の先生が、トライアスロンをやっている人だったんです。入学したての僕に『最新のトレーニング方法だ!』と言って、心拍計を付けてトレーニングすることを半ば強制的に勧めてくれました(笑)。自分の心拍数がわかるということが、とても面白かったんです。

だから、レースまでの約1カ月、毎日のように授業が終わると、学校の裏山に行って、日が暮れるまで頑張って坂を上って心拍数が上昇するのを試していたんです。どこまで上昇するのかを知りたくて。そしてまたそれが楽しかったんです(笑)。気がつくと220まで上がっていたこともありました。当時、そんなことをやっている人なんて周りにはいませんでした(笑)。

自転車とか、ランニングもそうですけど、一気に頑張ると息が切れて苦しいんですが、そこに充実感を得ていました(笑)。だから、180から200近い数値を出すことが面白くて、つらいはずの登り坂が好きになっていたんです(笑)」

一般的な成人の正常値(基準値)となる心拍数は、安静時で50から90と言われている。健康体なスポーツマンでも運動時で170を超えると息苦しいはずだ。つまり220という数は、とてつもなく息苦しい領域だ。身体的にも宮澤は優れていたのだろう。

スポーツを通して感じる身体的な苦しさはつらい。そのため負荷の強い運動を好むスポーツ好きの人を「M(『マゾヒスト』の頭文字)」と呼ぶ向きがある。しかし、スポーツで感じる苦しさの先には、取り組んでいる自分しか感じ得ない充実感や達成感があることも事実だ。その感覚は、向上心を支える「楽しさ」とも言える。

「生まれて初めて、優勝という経験をしました。楽しさとその結果に、『自分はこれだ!このために生まれてきたんだ!』と、ものすごく強く感じていました」

(写真提供:宮澤氏)

≪次回に続く≫

宮澤 崇史(みやざわ・たかし)
1978年2月27日生まれ。長野県出身。高校生でシクロス世界選手権に出場、卒業後はイタリアのチームに所属し、ロードレーサーとしての経験を積む。2001年22歳の時に母に肝臓の一部を生体移植で提供、手術のハンディキャップで成績振るわず、戦力外通告によりチーム解雇。その後はフランスで単独活動、オリンピック出場や日本チャンピオン、アジアチャンピオンなどの実績を重ね、2012年からは国際自転車競技連合における最もカテゴリの高いプロチームに2年間在籍。プロチーム在籍中にリーダージャージ(個人総合時間賞)、ポイントジャージ(スプリントポイント賞)に日本人選手として唯一袖を通した。18年間の海外レース活動を経て、2014年に引退。選手期間中の優勝回数は19回、日本代表選出は世界選手権5回、オリンピック1回(2008年北京オリンピック)、アジアオリンピック2回。
十代目 萬屋五兵衛(じゅうだいめ・よろずやごへい)
フリーライター
本名:高橋久晴。株式会社更竹代表取締役。大学卒業後、音楽業界から職業人歴をスタートさせる。制作、宣伝を中心に独自のマーケティング戦略で有名ミュージシャンやアーティストたちと多くのプロジェクトを成功させる。その後、飲食店開発の企業に転職し、飲食店をリアルメディアとしたマーケィング部門や、他業種のリアル店舗をつなげた新BGMサービス事業、フィットネスコミュニティ事業など、ライフスタイル事業を幅広くプロデュース。数社の役員を歴任後の2013年、家業の会社を軸に自身の経験を活かした企画コンサルティング事業を開始。「現代版よ・ろ・ず・や」というコンセプトを掲げ、多くの企業のプロジェクトに携わっている。

※萬屋五兵衛:1700年代から家系伝承されてきた職業名
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