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首都高を建てたパワー、撤去する叡智

名橋「日本橋」保存会・永森昭紀氏に聞く

2013年11月28日(木)

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 1914年(大正3 年)建築の東京駅が復元され、1931年(昭和6年)開業の浅草松屋ビル(東武浅草駅)が修復された。東京の古い建造物がかつての姿を取り戻す度に心が弾む。だが一方で、通るたびに暗澹たる気分にさせられるのが日本の交通の起点、日本橋だ。1603(慶長8年)、徳川家康によって架橋され、現在の石橋も102年の歴史を持つが、1964年の東京オリンピックに合わせ急ピッチで整備された首都高速道路によって上空を塞がれて半世紀が経とうとしている。名橋「日本橋」保存会の永森昭紀氏は、50年以上の間、日本橋を見つめてきた。「オリンピックで誕生した首都高は、次のオリンピックで役割を終えさせるべき。建設したパワーもすごいが、撤去するのも叡智だ」と説く。

(聞き手は小板橋 太郎)

永森昭紀(ながもり・あきのり)氏
名橋「日本橋」保存会事務局長。1961(昭和36)年に三越に入社。入社以来一貫して東京都中央区日本橋の三越本店に勤務する。1986年ごろから保存会の活動に参加、日本橋の老舗商店、料理店の経営者らと共に、日本橋保存のための活動に従事してきた。71歳。(写真:都築雅人)

永森さんは1961年(昭和36年)に三越本店に入社されたんですね。50年以上日本橋を眺めてこられ、62~63年頃に高速道路によって上空を塞がれる前の日本橋をご存じの貴重な存在ですね。いまでは想像もできませんが、青空の下の日本橋はどんな風景だったのでしょうか。

永森:私はまだ18歳でしたがよく憶えていますよ。日本橋は今よりもずっと広く感じました。欄干の中央にある麒麟の像が天高くそびえていて、三越本店に向かって橋を渡ると、左側にモダンな煉瓦造りの大栄不動産ビルがそびえていました。

 川沿いは今のようなビルではなく、民家がずらっと並んでいて、川に直接下りられるように桟橋が架かっていました。すでに魚河岸としての機能はなくなっていましたが、だるま船が行き交っていました。橋の上から夕焼けが綺麗に見えました。皇居の方向ですね。三越の屋上に上ると、遮るものはなく、富士山がよく見えた時代です。

手塚漫画の未来都市をイメージしていた

首都高はどんな風に架かっていったんですか?反対運動はなかったのですか。

永森:あの時点で、みんな高速道路とはどういうものだか、よく知らなかったんですよ。まだ世の中になかった物ですから。我々が言葉で聞いて、想像していたイメージとしては、手塚治虫の漫画の未来都市のあれですね。空に道があってね。車がスイスイ通っていく。

ガラス張りのチューブの中を車が通るような。

永森:そうそう。あんな風になったらどうなるのかねと話し合っているうちに、どんどんできちゃったわけです。夜の内に工事が進むから、見る見る内に出来上がっていく感じです。出来上がって見てみたら、日本橋がそっくり隠れてしまったんです。これは大変なことになったと。

同じアングルから見た1962年の日本橋と、50年後の姿。(写真上は時事、下は都築雅人)

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「首都高を建てたパワー、撤去する叡智」の著者

小板橋太郎

小板橋太郎(こいたばし・たろう)

前日経ビジネス編集委員兼副編集長

1991年立教大学文学部史学科卒、日本経済新聞社入社。整理部、社会部、産業部などを経て2011年から日経ビジネス編集委員。現在は日本経済新聞社企画報道部デスク

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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