日本は法治国家である。談合を撲滅すれば日本はもっとよくなる。企業にとって法令遵守は絶対だ。「何を当たり前のことを」と思った人、あなたこそ、この本を読むべきだ。
日本は「法治国家」ではない?
著者によれば、日本は「無法国家」ではないが「法治国家」でもない。例えば公共建設工事を巡る談合だ。これこそ、「予定価格を定めて入札を行い、最も低い価格を提示した業者が落札する」と決めた会計法(制定が明治22年!)という法律に背く違法な制度である。
「だから談合は悪だ!」という短絡思考に陥るのを著者は戒める。高度成長期、官民が一体となって作り上げた談合制度は当時の社会に埋め込まれた仕組みであり、少なくとも当時は一方的に悪と見なすことはできなかった、というのが著者の立場だ。
根拠はこうだ。ゼネコンにとってみれば毎年の受注量が談合によって安定した。競争がないからゼネコンの利益は増え、ある部分は建設技術の高度化にも投資された。東京タワーや高層ビルができたのは談合のおかげかもしれない。地方への富の配分システムの一翼も担ったし、ゼネコンからの政治献金という名目で政治家の懐も潤し、税金で担うべきだったかもしれない政治コストも賄ってきた。
毎年、膨大な量の工事発注をこなさなければならない官にもメリットがあった。技術力や信用面で問題のない業者が選定されるので、施工管理を厳格に行う必要がなくなった。ここでも税金が節約されたのである。天下り先が確保されたおかげで、多くの優秀な人材を官に向かわせた。
こうした談合によるメリットも、今は昔の話。というのも、バブル経済の崩壊とともに、経済がデフレ基調に変わったことが大きい。インフレ経済では前年に準じて設定される予定価格がゼネコン側に厳しい合理化努力を強いるが、デフレ経済下における前年並み予定価格は逆にゼネコンにとってのうまみが大きくなる。いわば経済のルールが変わり、談合の非効率性、非合理性が露わになったのだ。
目的は法の順守か、良質で安価な公共建設か
筆者は談合の復活をもちろん望むわけではない。そうではなくて、「良質かつ安全で、安価な公共建設を実現するにはどうしたらいいか」という本質的な議論がないまま、談合の禁止が自己目的化し、「(談合を違反とする)独占禁止法を守れ」という“法令遵守”の大合唱となる風潮に警鐘を鳴らす。その結果の過度な競争が工事の品質や安全性の劣化を招く危険性がある。談合=悪という見方だけ広まれば建設業界のイメージダウンが起きる。有能な技術者が建設業界への就職を忌避したらどうするのか、国家の損失ではないか、と著者は憂う。
もうお分かりだろう。法令遵守は「木を見て、森を見ず」、あるいは「原因療法ではなく対症療法」に陥りやすいのである。社会の仕組みと法律が乖離している日本では特にそうだ。法令遵守の墨守は、キープ力が弱い中盤と決定力に欠けるトップが敗戦の原因なのに、わずかのミスで失点したキーパーだけを責め、翌日からキーパー相手のシュート練習ばかりを繰り返す、へぼサッカーチームと同じなのだ。
このシャープな問題意識で、著者は最近の企業不祥事の構造を明らかにしていく。
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