「カオスを描いた北斎の謎」

第1回 世界的な傑作、「神奈川沖浪裏」の大波

古い体質に馴染めなかったからこそ名作は描かれた

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2007年4月10日(火)

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 浮世絵師・葛飾北斎(1760〜1849)は1831年から翌年にかけて、驚くべきことに72歳という高齢で生涯の傑作、横大判『冨嶽三十六景』シリーズを完成させた。追加分としての裏富士10図を加え、46図が数えられる。

 『冨嶽三十六景』は江戸市中から見た富士を13図、江戸近郊から4図、上総(現在の千葉県南部)から2図、常州(茨城県)から1図、東海道筋から18図、そして甲州(山梨県)方面から7図、その他1図あり、江戸馬喰町の版元・西村永寿堂より売り出された。

葛飾北斎 『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」 東京国立博物館蔵

葛飾北斎 『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」 東京国立博物館蔵


 『冨嶽三十六景』の富士は、富士に真正面から向き合ったものや、江戸市中を流れる紅葉川(もみじがわ)、隅田川、江戸湾、太平洋沿岸、駿河(静岡県)を流れる富士川、そして信州諏訪湖など、いずれも川・海・湖を配した構図が多い。

 太宰治は「富士には月見草が似合う」と言ったが、富士と水辺の取り合わせが多いのは、北斎にしてみれば秀麗な富士には水辺こそがよく似合うと思ったからであろう。

旧弊な体質に馴染めなかった若い頃の北斎

 北斎は1760年、本所割下水(東京・墨田区内)に生まれ、14〜15歳で彫刻師について版刻術を学んだ。19歳の時、役者絵界のリーダー・勝川春章(1726〜92)の門に入る。やがて北斎は勝川春朗を名乗り、役者似顔絵や黄表紙の挿絵を手がける。しかし、同門の勝川春好とそりが合わず、1794年に勝川派を破門にされる。

 次に春朗は御用絵師・狩野融川の門をたたくが、ここでも問題発言をし、師を怒らせ、破門にされる。進取の気性に富む春朗は、旧弊な体質に馴染めなかったのだ。

 京都では、写生派の円山応挙(1733〜95)が眼鏡絵(めがねえ)を描き、浮絵風の風景画を発表していた。別名くぼみ絵という浮絵とは、西洋画の技法である線遠近法(消失点を1点に絞る)を取り入れた日本独自の描法である。

 江戸でも歌川豊春が西洋銅版画を参考に浮絵を開拓していた。

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著者プロフィール

内田 千鶴子(うちだ・ちづこ) 内田千鶴子

作家・江戸文化研究家。1943年千葉生まれ。早稲田大学第一法学部卒。76年、映画監督の故内田吐夢(とむ)の次男・有作と結婚。79年、吐夢が写楽映画化のために描いた手紙(粗筋)を夫より手渡され、それがきっかけで写楽研究に入る。83年、中央公論社刊「歴史と人物」に「写楽=新史料」を発表。実証的研究を重ね、93年に『写楽・考』を発表し、大きな反響を呼んだ。著書に『写楽失踪事件』、カラーブックスシリーズ『写楽』、『能役者・写楽』。2007年1月に刊行した『写楽を追え』はドラマ風に仕立てた。現在、視点を外に向け、葛飾北斎『冨嶽三十六景』より、北斎創作の経緯および秘密に迫る研究に入った。



このコラムについて

カオスを描いた北斎の謎

90歳の生涯で膨大な作品を残した葛飾北斎。驚くべき体力と精神力の持ち主であった彼は、70歳を過ぎてから代表作『富嶽三十六景』シリーズを制作し、その後、長野県・小布施を訪れて、宇宙の混沌(カオス)を描いたかのような傑作を80代半ばに完成させた。なぜ北斎はカオスを描いたのか。『富嶽三十六景』の制作の頃から追って、その謎の真相に迫る。

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