浮世絵師・葛飾北斎(1760〜1849)は1831年から翌年にかけて、驚くべきことに72歳という高齢で生涯の傑作、横大判『冨嶽三十六景』シリーズを完成させた。追加分としての裏富士10図を加え、46図が数えられる。
『冨嶽三十六景』は江戸市中から見た富士を13図、江戸近郊から4図、上総(現在の千葉県南部)から2図、常州(茨城県)から1図、東海道筋から18図、そして甲州(山梨県)方面から7図、その他1図あり、江戸馬喰町の版元・西村永寿堂より売り出された。

葛飾北斎 『冨嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」 東京国立博物館蔵
『冨嶽三十六景』の富士は、富士に真正面から向き合ったものや、江戸市中を流れる紅葉川(もみじがわ)、隅田川、江戸湾、太平洋沿岸、駿河(静岡県)を流れる富士川、そして信州諏訪湖など、いずれも川・海・湖を配した構図が多い。
太宰治は「富士には月見草が似合う」と言ったが、富士と水辺の取り合わせが多いのは、北斎にしてみれば秀麗な富士には水辺こそがよく似合うと思ったからであろう。
旧弊な体質に馴染めなかった若い頃の北斎
北斎は1760年、本所割下水(東京・墨田区内)に生まれ、14〜15歳で彫刻師について版刻術を学んだ。19歳の時、役者絵界のリーダー・勝川春章(1726〜92)の門に入る。やがて北斎は勝川春朗を名乗り、役者似顔絵や黄表紙の挿絵を手がける。しかし、同門の勝川春好とそりが合わず、1794年に勝川派を破門にされる。
次に春朗は御用絵師・狩野融川の門をたたくが、ここでも問題発言をし、師を怒らせ、破門にされる。進取の気性に富む春朗は、旧弊な体質に馴染めなかったのだ。
京都では、写生派の円山応挙(1733〜95)が眼鏡絵(めがねえ)を描き、浮絵風の風景画を発表していた。別名くぼみ絵という浮絵とは、西洋画の技法である線遠近法(消失点を1点に絞る)を取り入れた日本独自の描法である。
江戸でも歌川豊春が西洋銅版画を参考に浮絵を開拓していた。
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