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第3回 北斎、太東岬近くの飯縄寺へ

伊八郎が制作した龍の彫刻に目を奪われる

  • 内田 千鶴子

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2007年5月17日(木)

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 1806(文化3)年、45歳の6月、北斎は房総方面へ旅立った。

 司馬江漢が全国各地の神社仏閣へ日本の風景画を寄進している噂が各地へ伝わり、北斎にも木更津長須賀の有志から長須賀(木更津市内)の日枝神社へ絵馬を寄進したい旨、よい絵を描いてくれるよう要請があったのである。

 1800(寛政12)年、北斎は江漢の銅版画による風景画に触発され、前回に書いたように中判の平仮名落款入り洋風風景画5図を描いていた。

 そのうち、『ぎょうとくしほはまよりのぼとのひかたをのぞむ』には、登戸海岸(千葉市内)に沿って丘陵が続き、そのあたりに祭られた千葉妙見の鳥居が描かれている。それと、絵本『隅田川両岸一覧』(1798年)の「旭 元船乗初」の中に「房総 春暁」と書いてあることから、すでに北斎は館山までの海岸沿いの道である房総往還道(陸路)か、海路で房総まで足を延ばしていたらしい。

 もう1枚『おしおくりはとうつうせんのづ』も房総の荒波を蛤(はまぐり)の化け物のように描き、その荒波に翻弄される押送り舟を挿入させている。この時点で、北斎が荒波とそれに負けまいと必死に舟を漕ぐ漁民の姿を面白いと感じ入っていたことは確かである。

江戸橋の近くから船に乗り、木更津浦へ

 先に陸路か海路で房総まで足を延ばしたらしいと書いたが、陸路を選ぶとすれば関所の通行や道中手形が必要だったことから、むしろそうした手間がいらない海路を選んだのではないか。1806年の房総行きは、おそらく、江戸橋の南詰やや西寄りにあった木更津河岸から、夜10時頃、五大力船に乗り込み、永代橋を通って江戸湾に入り、4~5時間かけて木更津浦に着いたと思われる。

仁田四郎がイノシシの背に乗って組み打ちする様子を描いた絵馬『富士の巻狩り』 
板絵著色 長須賀の日枝神社蔵 写真提供:千葉県立上総博物館

仁田四郎がイノシシの背に乗って組み打ちする様子を描いた絵馬『富士の巻狩り』 
板絵著色 長須賀の日枝神社蔵 写真提供:千葉県立上総博物館


 房総往還道近くにある木更津長須賀の名主宅で、北斎は注文された絵馬『富士の巻狩り』(木更津市長須賀・日枝神社蔵、上写真)を描いた。鎌倉時代、源頼朝は富士の裾野でたびたび巻狩り(四方を取り囲んで獲物を狩ること)をしているが、北斎は最も大規模に行われた1193(建久4)年5月の巻狩りをモチーフに選んだようだ。

 白雲たなびく富士が上部にそびえ、近景の右側の小高い丘の上に、1本の松の木が茂る。仁田四郎(にった・しろう)がイノシシの背に飛び乗って組み打ちする勇壮あふれる図柄である。ただ残念ながら、イノシシの目があまりにもリアルなため気味悪がられて後世に箒(ほうき)でかき消されてしまっている。

 秀麗な富士と近景に描かれる丘の1本の松の木は、1799年に司馬江漢が描いた『駿州八部富士図』(紙本銅版画・手彩、山形県・本間美術館蔵)や、寛政末年の作である『駿州薩陀山富士遠望図』(絹本油彩、静岡県立美術館蔵)をヒントにしている感がうかがえる。

 1800年に江漢が広島・厳島神社に奉納したという『木更津浦之図』(絹本油彩)の上部に堂々と描かれた富士の姿も、『富士の巻狩り』を描く時、北斎は意識したのではないだろうか。

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