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第4回 太東岬の波に魅せられた北斎

伝統を捨て、彫物の題材に新しいものを求める

  • 内田 千鶴子

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2007年5月31日(木)

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 千葉県いすみ市岬町和泉の飯縄寺(いづなでら)から、なだらかな丘陵地帯を下ると、九十九里が終わる地点、外房で最も波が荒いとされる太東岬へ出る。

 切り立った崖から、海を見下ろす北斎の目の前に、大波の固まりが岩にぶつかっては砕ける強烈な風景が広がっていた。寄せては返す大波は波頭が高く、波が裏返って見える。波は押し寄せては引き、繰り返し繰り返し、途絶えることがない。

学問寺として花開いた行元寺に施された彫刻

 いすみ市岬町長者出身の中村国香(1709-69)は、『房総志料』に「太東岬は外房で最も波の荒い所で、巨大鰐(わに)ザメが生息していて漁師仲間に恐れられた難所だった」と記している。

 内房の木更津浦の穏やかな海と打って変わって、太東岬は太平洋に面していて、波が高く、景色が殺伐として荒々しい。

 ざぶっーん、ざぶっーんと唸るかのように岩礁に砕け散る強烈な波は、気性の激しい北斎の情念をいたく揺さぶった。自然と向き合った北斎は、風にあおられて獣が生息しているかのような波を長い間見つめているうちに、いつか、この波を何としても絵の中に取り込んでやろうと心に決めたのである。

 崖を下って、外房に流れ込む夷隅川沿いに行くと、船頭が棹(さお)さす小舟が泊まっていた。その小舟に乗り込んだ北斎はいすみ市万木にある万喜城(まんぎじょう)を蛇行し、やや行った大野あたりで舟から下ろしてもらい、平穏な大地の続くいすみ市荻原の天台宗行元寺(ぎょうがんじ)の門をくぐった。寺の創建は古く、849年頃とされる。

 幾星霜を経て、寺が房総の地で学問寺として花開くのは、徳川家康の懐刀として活躍し、上野の東叡山寛永寺を建立した高僧・天海の引き立てを受け、千葉県山武(さんむ)市富田出身の定賢(後の巌海、さらに亮運)が1604(慶長9)年、行元寺の住職に推挙されてからであった。天海が上野東叡山に学問所を開いた時、学頭職として腕を振るった亮運の人脈がそのまま行元寺にも引き継がれ、夷隅(いすみ)の地にも学問寺の人脈が根づき、数多くの学僧、文化人がこの地を訪れたのである。

 元禄時代には、徳川家御用を勤め、東叡山寛永寺に4代家綱、5代綱吉の霊廟に、そして芝増上寺には6代家宣らの歴代将軍の霊廟に彫物(これらは第2次世界大戦で焼失)を残した公儀彫物師の元祖・高松又八郎邦教(?-1716)が行元寺本堂欄間に桃山文化を彷彿させる極彩色の彫物を施していた。欄間中央に白と紅の牡丹と華麗な羽根の錦鶏、それに龍が精緻に彫られている。彩色も岩絵の具や漆、金箔を使用し、豪華絢爛を誇る。牡丹の花びらが裏返っていたり、金鶏が今にも木の幹より飛び出てくるようにリアルで立体的である。

 本堂に足を踏み入れて欄間彫刻を目にした北斎は、牡丹や金鶏の精緻で迫力ある彫物をいずれ絵に描いてみたいと考えた。北斎晩年の極彩色で描かれた花鳥画の下敷きは、この辺にあったのだろうか。

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