毎日の出勤が憂鬱でならない。
原因はわかっている。
あいつらのせいだ。また今日も“あいつら”の顔を見なければと思うだけで気が萎えてくる。あいつらとは、ゴキブリだ。アース製薬に勤務する田々美健治(たたみ・けんじ)は、害虫駆除剤の研究と商品開発を任されている。その対象がゴキブリだった。田々美は、大のゴキブリ嫌いなのである。

「入社以来、ずっと蚊の研究をしていたんです。それがゴキブリに…、最初は勘弁してくれって思いましたけど、人手が足らんから手伝ってくれと言われて、断る間もなく班を変えられたんですね」
それが4年前のことだった。繰り返すが、田々美はゴキブリが大の苦手なのである。
「ぼくの前にも、ゴキブリだけはどうしても駄目だと言って他の班に移った研究員がいないわけじゃないので、ぼくも何とか逃げる口実を考えたんですけど」
無駄だった。
先輩にあたる研究員は、その日のうちに田々美に仕事を与えた。バットで飼育しているゴキブリを1匹ずつピンセットでつまみ、オスとメスとに選別しろというものだった。習うより馴れろという意味だったらしい。

バットというのは、押し入れの収納ケースを思わせる入れ物だ。兵庫県赤穂市にある生物研究棟にはゴキブリ専用の飼育室があり、壁の三面にこのバットが何段にも積み重ねられている。なかには、ギザギザに折った厚紙がやはり何枚も重ねられている。その1枚をひょいとめくりあげる。すると、そこにはびっしりとゴキブリが棲息している。
何しろ、ひとつのバットに1000匹単位のゴキブリが飼われているのだ。飼育室に積み上げられたバットの数も50ケースじゃ利かないだろう。考えただけで眩暈がしそうだが、確実に100万匹以上はいるというゴキブリは、全て研究対象として飼われている。そして、研究の対象となるゴキブリを数えるとき、田々美ら研究員は“一頭、二頭”と数える。
「怖いやら気持ち悪いやらで、初めはまともに見ることもできなかった。あいつら、ピンセットをつたって手の甲まで這い登ってくるんですよ」
あるとき、女性研究員のズボンの裾からゴキブリが中に入り込んだ大事件が出来した。
彼女は周囲の目もはばからず、その場でズボンを脱ぎ、ゴキブリを追い払ったという。それを目の当たりにしたら自分だけゴキブリが苦手だとは言えなくなった。研究とは、そのくらいの覚悟がいるものなのだ。
それでも馴れというのは怖ろしい。
いまでは、白衣の袖にまで這い登ってくるゴキブリを素手で払いのけられるようになった。ピンセットでつまめば、職業的にオスかメスかも確認してしまう。腹部が膨らんでいるのがメスで、オスの腹部は平坦なのですぐに見分けはつくのだそうだ。ただし、払いのけられるのは比較的小さなチャバネゴキブリで、体長4センチにもなるクロゴキブリはピンセットでつまむのがやっとだとは言うが。
田々美がもっぱら時間を割くのは、ゴキブリの生態研究だ。
ところが、ゴキブリというやつは実に研究者泣かせの生き物らしい。
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