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第5回 絵画性の高い鳥瞰図が流行

科学の発達が地図の製作を促し、絵師にも刺激を与える

  • 内田 千鶴子

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2007年6月14日(木)

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南下するロシアの動き、幕府は蝦夷の実地調査を行う

 1789(寛政元)年、松前藩の支配下にあった蝦夷地(北海道)でアイヌの人々の反乱が起こった。幕府は反乱の背後に、千島列島伝いに南下してくるロシア人の動きがあると見て、神経を尖らせ始める。

 翌年の1790(寛政2)年、米国船が紀州沖に寄航。さらに次の年、1791年には別の外国船が対馬海峡を横切ったとの情報が伝わった。

 1792年9月、とうとう歯舞群島近くの根室に一隻のロシア船が入港し、日本の漂流民を送り返すとの名目で、日本との交渉を要望してきた。

 時の老中・松平定信は、日本に近寄った外国船に対して穏便な処置を取るよう指令する。海防体制が不十分なため、強硬な措置を講ずることができなかったからだ。

 1794(寛政6)年、ロシアが千島に植民地を建設。国後島はすでに松前藩の支配下にあった。残る択捉島を巡って、日露が角を突き合わせる状況が展開してきた。

 次第に南下してくるロシアに対し、危機感を募らせた幕府は、1798年、近藤重蔵、最上徳内らの大調査団を派遣して、蝦夷地全体にわたる実地踏査を行わせることを示唆。蝦夷地の実地踏査は、積極的に世界の事情を探ろうという探検精神を高揚させ、鳥越(現・浅草橋3丁目)の幕府天文方では、天文方役人・高橋至時(よしとき)を中心に、地理・暦算・測量・天文・地図製作・翻訳事業と研究が活発化し興隆したのである。高橋至時と親しい近藤重蔵は、択捉島へ入ってロシア人の立てた標柱を倒して、「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。

 間宮林蔵は樺太とシベリア大陸が離れていて、その間に海峡があったことを発見した。

葛飾北斎 『総房海陸勝景奇覧』 船橋市西図書館蔵

葛飾北斎 『総房海陸勝景奇覧』 船橋市西図書館蔵 (*画像をクリックして拡大)


自然科学の発達が地図の製作をうながす

 北方実地踏査の噂が飛び交う中、上総香取郡佐原村の伊能忠敬は北方の動きにいたく興味をそそられ、50歳をめどに、家督を長男に譲り、何はさておき江戸に向かった。深川黒江町に住居を定め、高橋至時の門をたたき、本格的に西洋暦学・測量術を学んだ。学べば学ぶほど、地球の正確な状況を知りたいという情熱を抑えることができず、何としても日本全国の海岸線を歩いて測量しなければならないという使命感にかられ、師の至時を通じ、このことを幕府に願い出るのであった。

 これが受理され、1800(寛政12)年4月、忠敬一行は深川富岡八幡宮へ詣で、品川を基点に奥州街道へ旅立った。船で北海道に入り、蝦夷地の測量の旅が始まる。その後、東北・東海・北陸・西日本と測量を続け、17年の歳月をかけて、1821(文政4年)に225枚の『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成するのである。忠敬の測量は、海岸線と主要街道のみに限られていた。山地は緑色、海面は水色、砂浜は黄色、街道と海岸の測量地点は朱色に塗り分けているが、すべて淡彩で絵画的にも美しい。測量の誤差はわずかであったという。

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