「タケダジャーナル」

「事実主義」こそ、ジャーナリズムの敵だ

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2007年7月17日(火)

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 前回の記事に対して「Winnyを称賛している。けしからん」という批判記事が一部のブログに書かれていたらしい。

 繰り返すまでもないが、前回の記事本文はWinnyと既存のジャーナリズムをあえて同じ地平に並べることで後者を批判する新しい視点を得ようとした内容だった。つまりジャーナリズム批判でありこそすれ、Winny称賛であるはずがない。

 ブログジャーナリスト諸君はタイトルの「Winnyは最高のジャーナリズムである」に含まれたアイロニーをちゃんと読み取ってほしかった。それが分からないようでは「褒め殺し」されているのに気づかず喜ぶ輩と同じになってしまうぞ(笑)。

 しかし、彼らの心理を推し量るなら、そこにはジャーナリズムそのものへの過大評価があり、それが眼を曇らせていたのかもしれないと思ったりもする。

 世間一般的に最悪とされている(ウィルス感染済みのパソコンにインストールされた)Winnyを、あえて「最高」呼ばわりして比較考量されるほど今のジャーナリズムに「根深い」問題がある。このレトリックが理解できないのは、ジャーナリズムをたいそう立派なものだと信じて疑っていない心理と相関しているようにも思うのだ。

 今回はこうした傾向への懸念を改めて議論の対象にしてゆきたい。そこで再びアイロニーたっぷりの表現を用いよう。今回のお騒がせコピー(笑)は、「事実主義こそジャーナリズムの敵だ」である。

ジャーナリズムへの過大評価と厳しさは裏表

 例えば「あるある」以来、放送ジャーナリズムへ向けられる眼が一段と厳しくなっている。少し前にはTBSの「朝ズバッ!」が賞味期限切れ問題で不祥事を起こした不二家を盛んにバッシングしていた報道で、不二家社員の証言を都合よくでっち上げた疑惑が問題になっており、これまた多くのブログで批判的な書き込みが繰り広げられていた。

 確かに「朝ズバッ!」が証言を捏造していたのだとしたら情けない。ただ、ここではそうした放送倫理の問題それ自体ではなく、むしろそれに向けられる非難の「質」について考えてみたい。そこにも現在のジャーナリズムへの過大評価が影を落としていると思うからだ。

 と、書くとまっさきに矛盾していると思われかねないだろう。現状の放送ジャーナリズムを厳しく批判しているひとが同時にジャーナリズムを過大評価しているなどあり得ないではないか、と。

 だが、一見、矛盾するように思われる「ジャーナリズムへの過大評価」と「ジャーナリズムへの厳しさ」は実は紙の表裏のように同時に存在し得る。というよりも、その同時並立があり得る状況こそが、実は問題なのだ。そしてそこでキーワードになるのが「事実主義」なのである。以後にそれを説明してゆこう。

 あらかじめ明記しておきたいが、筆者も報道における事実の重要性を疑うものではない。以前に朝日新聞が広告キャンペーンで盛んに「言葉のチカラ」を強調していたが、ジャーナリズムに関して、むしろ強調すべきは「事実のチカラ」だろう。事実が受け手の心を震わせるのであり、文芸でもないのに美辞麗句=言葉のチカラが大事と報道の側が初めから認めてしまうのには違和感が払拭できない。

 しかし筆者は事実のチカラを重視するが、だからなおさらに事実のあり方、事実を報道する方法のあり方については慎重な議論が必要だと考えている。

 分かりやすさを求めて端的な話から入ろう。例えばジャーナリズムの仕事は多かれ少なかれ締め切りを持っている。それは俗っぽい言い方をすれば、放送や刊行の時間があらかじめ定められているからであり、もう少し本質的な言い方をすれば、直接、権力の拳を振るうわけではなく、世論形成を通じて政治や社会に軌道修正を迫る役目を与えられた報道にとって、取材で明らかになった新事実が社会に影響力を強く保持し得る、いわば「旬の」期間に報道することが望ましいということでもある。

 しかし、そうした締め切り期限までの間に、事実関係が確かめ切れなかったらどうするか――。

 報道しないことのデメリットとして、他社に先駆けられる(特落ち!)のが不名誉だからトバシてしまうというギョーカイ的な価値観もあり得るが、それは議論を厄介にするのでとりあえず脇に置いておこう。先にも挙げた報道の社会的使命ということを思えば、事実関係の内容やそれに対する価値判断においても多少未確定の部分が残っていても、速報によって社会に警鐘を鳴らしたり、被害者救済に繋がる場合には報道を敢行するのがジャーナリズムのあり方だ。その時に未確定の事実を報道するメリットと、報道しないことのデメリットとを天秤ばかりにかける。

完璧な裏づけがなければ、報道してはならないか?

 未確認であってもそれをいち早く報道することで、もしかしたら社会が被るかもしれない害から多くの人を救える可能性が高いのであれば、報道する方に賭ける。逆に報道が結果的に誤報に転んだ場合の被害の方が大きく懸念されれば一度は見送って確認作業を続ける。そんな駆け引きを日常的に繰り広げているのが報道の現場だ。

 こうした報道のリアリティを無視して「ジャーナリズムは事実報道に徹せよ」と主張するのは、現場を知らない人間が、机上の空論を振り回しているに過ぎない。ジャーナリズムが本当に完璧に裏の取れた事実だけしか報じないようになったら、社会は相当に危険な状況に陥るだろう。

 また、これは特に放送ジャーナリズムに顕著だが、演出はどこまで許容されるかの問題がある。

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著者プロフィール

武田 徹(たけだ・とおる)

武田 徹氏

ジャーナリスト・評論家。恵泉女学園大学人文学部教授。『流行人類学クロニクル』(日経BP社)でサントリー学芸賞受賞。その他、『「核」論』『偽満州国論』『「隔離」という病い』(中公文庫)、『NHK問題』『戦争報道』(ちくま新書)ほか著書多数。 東京大学先端科学技術研究センター特任教授として2003-7年にジャーナリスト養成コースを運営。(写真:都築 雅人)



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インターネット、デジタルカメラ、ブログ、SNS…。情報発信の術を個人が手にした現在、ジャーナリズムの姿は否応なく変化している。それは、ネットを利用する個人が、半ば強制的に「ジャーナリズム」に巻き込まれるということだ。時代を泳ぎ切るには受け手として「メディアリテラシー」を備えるだけでは足りない。誰もが送り手になりうる状況を踏まえて、新しい時代にふわしいジャーナリズムの作法を知っておく必要がある。武田徹の「万人のためのネットジャーナリスト講座」、ここに開幕。

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