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時代遅れの改正教育基本法【後編】
~バブル期の思考が未来の日本を損なう

  • 広田 照幸,斎藤 哲也

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2007年7月20日(金)

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【特命助手サイトーの前説】

 以前、別の場所で広田先生にインタビューしたときに、こんなことをおっしゃっていました。「(文部科学省から)教育基本法改正の答申が出たのは2003年3月ですけど、基本的には1984年にできた臨時教育審議会で前提になっていた国家像がずっとそのまま続いていると言ってよいと思います」

 この話を伺って、助手サイトーは驚きました。84年といえばバブル前夜。当時のイケイケでジャパン・アズ・ナンバーワンを目指す国家像を現在までずっと引きずっていたなんて知りませんでしたから。

 さて、今回の記事タイトルは「時代遅れの改正教育基本法」です。具体的に、新しい教育基本法のどこが「時代遅れ」なのか? 教育基本法改正に反対するのは「守旧派」「抵抗勢力」なのか? 

 これは以前いただいたコメントにもあった「まず教育のヴィジョンが必要」「どうすれば時代遅れではなくなるのか?」にもかかわる話です。単に反対するだけではなく、改正教育基本法とは異なる教育の未来像をどのように描くか。30年後、50年後の望ましい日本社会を踏まえた、広田先生の「代案」にご注目下さい。

 新しい教育基本法が及ぼすであろう影響を推察すると、私は今も、教育基本法は改正すべきではなかった、と考えています。こんなふうに言うと、守旧派や抵抗勢力のように誤解されやすいんですが、そうではないんです。私に言わせれば、今回の改正教育基本法のほうが時代遅れなんです。

 教育基本法の改正、学校教育法(いわゆる教育三法の一つ)の改正、教育再生会議での議論などに共通して流れている道徳主義や愛国主義の考え方が、これからの時代にとって、決してプラスではないと考えています。ここでは、2つの点を論じたいと思います。

日本の今と未来に重大な影響

 ひとつは、道徳や規範を過度に強調する教育への転換が、これからの時代の私たちの社会にとって本当に必要な、多様な公共性の可能性を封じ込めてしまうのではないか、という点です。その意味で時代の変化にそぐわないのではないかと思うのです。
 
 もう少し説明が必要です。道徳や規範を強調する論者は、「わがまま勝手な個人が増えてきた」といった時代認識を打ち出します。道徳や規範を身につけない個人が増えてきたせいで、社会がバラバラになっている、といった像です。

 「バラバラな個人の不安定さ・危なっかしさを考えるなら、『愛国心や道徳』をきちっと教え込むほうがましではないか」という議論は、一見すると説得力がありそうです。

 しかしながら、私に言わせると、この議論は重要なところで間違えています。

「社会総がかり」「親学」のうさんくささ

 「バラバラな個人」か、それとも「愛国心や道徳」か、という二分法的な議論の仕方がそもそも間違いだ、と思うんですよ。「バラバラな個人」に対置されるべきものが、「愛国心や道徳」だ、というのが短絡だと思うんです。

 「バラバラな個人」か「愛国心や道徳」か、という二分法ではなくて、「自分のことしか考え(られ)ないこと」と、「社会や他人について、ものを考えること」という二分法に置き換えてみる必要があると思います。「自分のことしか考え(られ)ない」ような個人であふれた社会は、私も大いに問題だと思います。だから、もっとみんなが「社会や他人について、ものを考える」ようになればよい、と思います。この点には、ほとんどの人が合意できるはずです。

 ここで重要な点は、「社会や他人について、ものを考えること」と「愛国心や道徳」とは、イコールの関係ではない、ということです。愛国心や道徳・規範の強調は、「社会や他人についてものを考える」際のひとつの在り方ではありますが、きわめて特殊なタイプであると言えます。そこでは、「誰もが納得する『正しさ』があらかじめ存在している」という、きわめて特殊な前提が置かれているからです。

 今、「教育を通して愛国心や道徳を教えろ」と叫ぶ人たちは、自分たちが「正しい」と思っている価値や態度が万人にとっても「正しい」、と思い込んでいます。教育再生会議で「社会総がかり」とか「親学」などと言っている人たちは、そういう人たちです。「ワシが『正しい』と思っているものは、社会全体にとっても正しいはずだ」と決めつけるような感じです。「望ましい価値や規範」について、決め打ちしちゃっていると思うんです。

「バラバラな個人」への対処は道徳主義だけじゃない

 かつてのムラのような狭い共同体ならば、「何が正しいかはあらかじめ決まっている」と平気で言うことができました。しかし、今や、わたしたちの社会は、多様な価値観や理念によって構成されています。いろんな人がいろんな価値観や理念を持って生きている。その多様な人たちが相互に関わりを意識し、関係を取り結ぶ。――それが21世紀に必要な社会への態度だと私は思います。

 つまり、「バラバラな個人」に対置されるものを考えようとする時、一元的な価値や道徳的基準を考えるか、それとも、多元的な価値や道徳的基準の複数性を考えるかという、大きくいって2つの方向性があります。

 しかも、価値の多元性や基準の複数性を認める後者の立場においては、「公共性」を紡ぎ出していくやり方に、たくさんのバリエーションが考えられます。人によって「正しさ」の基準が異なっているとすると、社会全体でどう折り合いをつけていくか、どういう手続きで、何に優先順位を与えるかについて、さまざまなやり方が考えられるからです。

 その意味で、教育基本法改正に反対していたいわゆる左翼の人たちの語り口は、私に言わせると、不十分さが目につきました。「公によって私がおびやかされるぞ」という論点ばかりが強調されていたように思うからです。

多様化に向かう社会に逆行

 むしろ、強調されなければならなかったのは、多様な価値観を前提にした公共空間の創出の可能性が、狭量な道徳主義によって封殺されてしまいかねないという危険性です。ただ1種類の「正しさ」しか認めない社会は、度量の小さい、硬直した公共空間しか育っていきません。これからの私たちは、多様な公共性の可能性を模索することこそが必要なのではないでしょうか。

 現代社会においては、西洋でも日本でも、「個人化」や「私化」が進展してきていることは、多くの論者が指摘してきていることで、私もその点は同じ認識を持っています。「社会や他人について、ものを考えること」をもっと教育の中に組み入れていく必要があります。だからといって、それを一元的な価値や道徳的基準でやっていこうというのは、あまりに古くさい、短絡的な処方箋だと思うわけです。

改正教育基本法は20年前の国家像を引きずっている

 そしてもうひとつの問題は、日本と世界との関わりについてです。端的に言えば、改正教育基本法が前提としている、道徳主義や愛国主義を強調する国家像があまりにも古くさい、ということです。

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