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第8回 ベロ藍を手に入れた北斎

透き通るような明るい青で波頭を鮮やかに描く

  • 内田 千鶴子

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2007年7月27日(金)

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 1831(天保2)年、71歳を迎えた北斎に決定的なチャンスが訪れた。

 日本橋馬喰町の版元・西村永寿堂の要請で、8年前から描きためていた冨嶽図36景を横大判サイズの錦絵で売り出すことが決まったのである。

 富士見13州を発想の基点に、江戸市中・江戸近郊・上総(千葉県)・常州(茨城県)・東海道方面・甲州方面、それに富士山頂付近とあらゆる方位から見た富士と、追加分の裏富士を含めた46枚を一挙に刊行させようという画期的な企画だった。

 永寿堂が北斎に大量の富士図を描くように勧めたのには、次のような理由がある。

 1804(文化元)年から1829(文政末)年にかけて、庶民の興味が屋内から屋外へ注がれるようになり、物見遊山と信仰を兼ねた神社仏閣詣・各所巡り・温泉巡りが流行した。

 五街道や宿場も整備され、伊勢参りに急ぐ東海道筋や、日光を目指す奥州街道も賑わった。山岳信仰も盛んになり、富士講・御嶽講・権現講などの信仰組織が生まれ、代参者が持ち回りの費用で毎年順番にそれぞれ信奉する山に登拝(とうはい)するという、かつてない登山ブームが訪れた。

 版元の西村永寿堂も熱心な富士山信奉者で、富士講の講元を務めていたから、この登山ブームに目をつけ、「冨嶽図」を出せば大当たり間違いなしと狙いをつけたのであった。

版元がベロ藍を買い付け、北斎に渡す

 何よりも北斎のやる気を誘ったのは、永寿堂がまだ入手困難な、舶来の鉱物顔料であるベロ藍(プルシアンブルー)を、高価な値段で買い付け、北斎に手渡したからである。

 ベロ藍は、1704(宝永元)年から1710(宝永7)年にかけて、ドイツ・ベルリンで染色・塗料製造に従事していたディースバッハと錬金術師デイツペルが、フローレンスレーキという赤い顔料を作ろうとした時、偶然、青色の色材(フェロシアン化鉄)が発見されたのである。これが俗に言う、ベロ藍(プルシアンブルー)である。

 日本にベロ藍が入ったのは、1807(文化4)年、オランダ船の船員の脇荷として長崎へ持ち込まれたという記録が残っている。

 1810(文化7)年、蘭学者・大槻玄沢がドイツ人学者の製法書を訳した「蘭エン摘芳巻八」に「ベルレンブラウ」として記述している。しかし、ベロ藍が江戸市中に出回るのは、それから20年を経た文政末年になってからであった。

 北斎が永寿堂から渡されたベロ藍を水で溶いて塗布してみると、透き通るような明るい、美しい青が紙に出た。

 「これだ。この青を、植物繊維から採れる濃い藍と掛け合わせれば、素晴らしい空や水が描ける」。絵の具は絵師の命だ。小躍りする北斎を見て、永寿堂は「冨嶽三十六景」の成功は間違いないと、ほくそえんだ。

 北斎は刷師に輪郭線を墨ではなく、ベロ藍で描くことを指示した。それで描けば、画面が軟らかくなり、明るくよく映えるからだ。

 「冨嶽三十六景」をどの部分から出版したか定かではないが、すべての作品の空や水の部分にも、植物繊維の出す深い藍色と透明感あるベロ藍がうまく配合されている。

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