「降旗 学の「長目飛耳」」

永遠のための最後の化粧

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2007年8月10日(金)

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 処置用のテーブルに横たわっているのは遺体だ。

 手をあわせ、深々と一礼すると、宇屋貴(うや・たかし)は鎖骨近くをメスで切開し、頸動脈と頸静脈を確認、確保する。
 動脈には、鉛筆ほどの太さをしたカニュラという器具が挿入され、そこから“固定液”が注入される。用いられるのは主にホルマリンやフェノール(漂白剤)、グリセリンといったアルコール系の薬剤だが、濃度を調整した固定液は、チューブでつながった動力ポンプから送り込まれる仕組みになっている。

 宇屋が行なっているのは、エンバーミングという処置だ。
 英和辞書を繰れば、その言葉には“防腐処置を施すこと”とある。日本ではまだ馴染み薄い言葉だが、遺体を腐敗から守り、保全する技術である。その技術の持ち主がエンバーマーと呼ばれるが、彼らには、たとえば溺死や焼死、あるいは自殺や事故によって損傷した遺体を復元する技術も同時に求められている。遺体に接する仕事なのだ。

 動脈から断続的に固定液を送り込むと、切開した静脈からは血管内に残った血液が押し出される。大雑把に言ってしまえば、エンバーミングとは、血液を固定液に入れ換える作業でもある。そうすることで、遺体は腐敗から守られる。
 遺体の体型にもよるが、血液をすべて入れ換えるには、ひとりあたり約5〜10リットルの固定溶液が使われるという。

固定液に使われる薬剤

固定液に使われる薬剤

「ベースになるのは濃度2.5%のホルマリンです。蛋白質量が平均以上に多いとか、腐敗が進んだご遺体、溺死などで多分に水分を含んだご遺体には固定液の濃度を濃くし、黄疸症状が見られた場合は薄くします。これは化学反応による皮膚の変色を避けるためです」

 遺体の状態によって、固定液に赤い着色料や漂白剤を混ぜることもある。
 着色料を混ぜることで、遺体の肌があたかも湯上がりのような桜色になるからであり、逆に漂白剤を混ぜることで黄疸症の黄色がかった肌が白くなるからだ。

「固定液というくらいだから、固まるのが早いんです。ご遺体の性別、年齢、体型と死亡診断書のコピーを見ながら固定液と濃度を決めるんですが、注入をはじめてから、おかしいと感じたらすぐに薬液を変えなければならない。やりなおしのきかない仕事なんです」

 およそ1時間ほどをかけて固定液の注入を終えると、次は“アスピレーション”と呼ばれる作業に移る。遺体の体内に溜まった腹水や腐敗液の吸引である。
 尖端が尖った套管針(トロッカー)という器具は、長さ30センチほどの十手を想像してもらえばいい。これを腹部深くに刺し入れ、腹水や腐敗液を吸引するのだ。吸引量は大人で2〜3リットルにも及ぶという。

左はコンタクトレンズのように眼球の上にかぶせて、まぶたが開かないようにするもの。右のネジは、トロッカーで開けた吸引用の穴をふさぐ用具

左はコンタクトレンズのように眼球の上にかぶせて、まぶたが開かないようにするもの。右のネジは、トロッカーで開けた吸引用の穴をふさぐ用具

縫合糸。タコ糸のように太い

縫合糸。タコ糸のように太い

 そのあとで、防腐剤や殺菌剤を注入し、切開部を縫合したら保全処理は完了だ。
 ここまでの処置を称してエンバーミングと言うが、何故このような技術が求められているかというと、遺体は必ずしも衛生的ではないからだ。

「お別れの際、ご遺体に頬摺りされるご遺族もおられます。なかには、口づけをされる方もおられます。お気持ちはわかるんですが……、人間の体内には何十億という病原菌がひしめいています。生きているあいだは抵抗力が菌の活動を抑え込むんですが、生体活動が停止するとともに抵抗力は消えてしまうんです」

 ときとして、遺体の目や耳、鼻、口、そして肛門から体液が漏れ出すことがあり、そのときに病原菌が放出されることも少なくないのだという。たとえ親族でも、遺体との無防備な接触は、感染の危険性を秘めているのである。

「そういった衛生的な面からも、エンバーミングには意味があるんです。腐敗を抑えるということは、菌やウイルスの活動と増殖を抑えることにもなるんです」

 だが、エンバーマーの仕事は防腐処置を施して終わるわけではない。
 処置をした遺体は一度洗浄し、仏衣などの着付け、化粧、整髪までをこなしてようやく納棺の運びとなるが、あくまでそれは自然死や老衰で亡くなった“きれいな遺体”の場合だ。

 年間の死亡者数は100万人強と言われているが、死の迎え方はひとによってさまざまだ。そして、自然災害や交通事故、あるいは自殺といった身体に損傷を伴う遺体の復元にも、宇屋のエンバーミング技術は効力を発揮する。

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著者プロフィール

降旗 学(ふりはた・まなぶ) 

ノンフィクションライター。1964年、新潟県生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。96年、第3回小学館ノンフィクション賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『敵手』『松坂大輔 証明』他、剣崎学のペンネームで書いた『都銀暗黒回廊』など。
近著は『草野球をとことん楽しむ』(新潮新書)。 本ウェブ連載「長目飛耳」をまとめた『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)



このコラムについて

降旗 学の「長目飛耳」

本コラムが単行本になりました! 『世界は仕事で満ちている

テーマは“仕事と夢と男と女”。世の中にはこんな仕事もあるのかというような仕事、知ってはいるけど実態までは知らない仕事がある。そんな仕事に生きがいを見いだす人、夢に向かって走り続ける人、そして、仕事と恋の狭間で揺れる人々の思いを活写するルポエッセイ。タイトル「長目飛耳(ちょうもくひじ)」とは“遠くのことをよく見聞する耳と目”の意。

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