「降旗 学の「長目飛耳」」

“ハンズから”起業した、流しのはんこ屋さん

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2007年8月31日(金)

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 彼女ははんこ屋だ。

 だが、ふつうのはんこ屋とちょっと違うのは、その場ではんこを彫る“流し”を生業としていることだ。流しだから、当然、店舗を持たない。彼女が出向いたそこが工房であり、出店になる。

 彼女が商売をするのは、フリーマーケットの一画や縁日、ギャラリー、イベント会場が主になる。広さにすれば、わずか1畳足らずのスペースが彼女の持ち場だ。

まなさん

 行く先々で、彼女は“はんこやまなさん”と呼ばれている。本名は田中眞那美(たなか・まなみ)だが、田中さんでも眞那美さんでもない、まなさんなのだ。皆がそう呼ぶから、私も同じように呼ぼう。

 流しのはんこ彫りなどと言うと、思い浮かべるのは縁日や祭での露天商や的屋だ。大道香具師である。故渥美清が演じた“寅さん”のイメージがあるから、おそらく気っ風のいい姐御肌のひとだろうと思っていたのだが、まなさんは印象は想像とはずいぶん違っていた。むしろ物静かで華奢な感じのする女性だ。

「30歳のとき……、10年前ですよね。趣味ではんこを彫ったりはしていたんですが、いきなり商売にしちゃったんです。だから、わたしの流し歴も10年になるんです」

 もともとは、テレビ番組の制作会社に勤めていた。料理番組の担当だ。勤続年数は4年だが、辞めてからは就職もアルバイトもせず、1年のあいだ、ほとんど毎日のように映画館に通い詰めた。

 その後、フリーター生活を2年。それからデザイナーとして出版社に中途採用され、雑誌の編集に携わる。

「これがわたしのいけないところなんでしょうけど、ずっとデスクワークばかりやっていると、身体を動かす仕事をしたくなるんですよね。それで――」

 給食婦に転職した。思い切った転身だ。
 ところが、身体を使う仕事を続けていると、今度は机にじっと座る仕事に食指が動く。それでまた出版社に戻った。製作会社、映画館通い、アルバイト生活、出版社、給食婦、そしてまた出版社勤務と、まなさんはかなり振り幅の激しい20代を過ごしたことになる。はんこを彫りはじめるのは、このあとだ。

 きっかけは些細なことだった。
 ギャラリーを無料で貸し出すという告知があり、友人が応募したら当選してしまった。ダメもとの応募だったこともあり、何のプランも持ちあわせていなかったが、せっかくの機会だから皆で出展しようという方向で話がまとまった。

「お友だちはそこで研究発表をしたり、自分で撮った写真をパネルに引き伸ばして展示したりしたんですが、わたしには出展できるようなものは何もなくて……、とりあえず東急ハンズに走ったんですね。何かつくって出せばいいだろうくらいの軽い気持ちだったんです」

 1日かけて、すべてのフロアを見てまわったという。
 そこで出合ったのだ。はんこと。

くっつけてみたらぴったり

「直径が約2センチで、長さが1メートルちょっとの円柱になった木材があって、面白いなって思ってたんです。別の階に行ったら、やっぱり直径2センチくらいのゴム版が売っていて。まてよ、と思って両方を買って、くっつけてみたらぴったり。これではんこがつくれるじゃないかと」

 はんことの出合いは、偶然の賜物だったのだ。

 だが、結局、まなさんは自作のはんこを出展しなかった。作品をつくるより、はんこを彫るほうに熱中したからだ。だから、作品を出展する代わりに、友人の名前を彫ったはんこをパンフレットにぺたぺたと押した。皮肉にも、そのはんこが来場客の人気を集めてしまう。

「来てくれたお客さんのひとりが、こういうの面白いから表参道で売ってみたら、と言ってくださったんです。それで、すぐ表参道に行ったら……、本当に売れたんです。あのときは一本300円で売ってたと思いますけど」

 これが流しのはんこ彫りのはじまりだ。

「表参道でも、やっぱり買ってくれたお客さんが、井の頭公園で売ったらどう、と言ってくださったので井の頭公園で売って、そこで湯島聖堂の楽市楽座だったら行列ができるよと言ってくださった方がいたので、行ってみたんです。そうしたら――」

 本当に行列ができた。

 流し稼業は出だしから大繁盛だった。それどころか、評判が評判を呼び、あちこちのフリーマーケットや催し会場から声がかけられるようになった。いままで、一度として営業活動をしたことがないのだという。10年このかた、ずっと引っ張りだこなのだ。

 1畳ぶんの座るスペースさえあればはんこは彫れる。身も軽い。だから、どこへでも出かけて行く。出版社を辞めて流しのはんこ彫りを本業にするまで、そう長い時間を必要としなかったというのもわかるような気がする。

 だが、まなさんには、いわゆる師匠はいない。そもそも、流しのはんこ彫りを生業にした先人がいないから、値段にも相場といったものがないのだ。趣味感覚ではじめたはんこ彫りだけに、すべてが独学と工夫の連続だった。

はじめたころは平仮名ひと文字とか、せいぜい三文字彫るくらいが精一杯

「はじめたころは平仮名ひと文字とか、せいぜい三文字彫るくらいが精一杯で、四文字は無理ですなんて言って断ってました。イメージしていたのと違うと言われて、何度も彫り直したこともあります。11回やり直して、それでも気に入らないと言われたのが過去最高ですね」

 現在は、丸判であれ角判であれ、最小8ミリの印面に、かつては無理だった四文字を彫り込めるばかりか、10ミリ大のサイズなら枠線まで彫りつける。魚や鳥、猿などのイラストも彫るし、英語の文字も彫る。材料は、東急ハンズや文具店で手に入るものばかりだ。

 判の大きさを決めると、ゴム印に下書きした鏡文字に沿って彫りつける。この彫りつけ作業は慎重さを要するが、これを予め均等に切ってヤスリをかけておいた“持ち手”に接着するだけ。1本つくるのに、かかる時間は5分から10分だ。私のような画数の多い苗字も、あっという間に彫りつけてしまう。

「画数が多いほうが実は簡単なんです。むしろ画数が少なくて、左右対称の文字のほうが難しいんですよ。たとえば数字の一とか三、私の苗字の田中とか、小さいという字ですね。だから、もし“小林一三”さんという方がいらしたら、やっぱりお断りするかも」

 まなさんがつくるはんこの値段は、1本800〜1000円がおおよその目安になる。
 私は、目の前で自分のはんこがつくられる模様が見られて1本1000円なら安いし、縁日気分も味わえて楽しいと思えるのだが、なかにはその1000円を高いと感じる客もいるらしい。

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著者プロフィール

降旗 学(ふりはた・まなぶ) 

ノンフィクションライター。1964年、新潟県生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。96年、第3回小学館ノンフィクション賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『敵手』『松坂大輔 証明』他、剣崎学のペンネームで書いた『都銀暗黒回廊』など。
近著は『草野球をとことん楽しむ』(新潮新書)。 本ウェブ連載「長目飛耳」をまとめた『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)



このコラムについて

降旗 学の「長目飛耳」

本コラムが単行本になりました! 『世界は仕事で満ちている

テーマは“仕事と夢と男と女”。世の中にはこんな仕事もあるのかというような仕事、知ってはいるけど実態までは知らない仕事がある。そんな仕事に生きがいを見いだす人、夢に向かって走り続ける人、そして、仕事と恋の狭間で揺れる人々の思いを活写するルポエッセイ。タイトル「長目飛耳(ちょうもくひじ)」とは“遠くのことをよく見聞する耳と目”の意。

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