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フェルメール《牛乳を注ぐ女》とオランダ風俗画展

国立新美術館 研究員 宮島綾子氏

  • 木谷 節子

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2007年9月10日(月)

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 9月26日(水)より国立新美術館(東京・六本木)で「フェルメール《牛乳を注ぐ女》とオランダ風俗画展」が開催される。この展覧会は、17世紀にオランダで生まれた風俗画が、19世紀末にいたるまでにどのような展開を遂げたかを、合計116点の作品で紹介すると同時に、フェルメールの傑作《牛乳を注ぐ女》が来日することでも注目される展覧会だ。今回は、この展覧会を担当した研究員の宮島綾子氏に、日本でも人気の高い静謐(せいひつ)の画家・フェルメールと、今回展示されるオランダ風俗画についてうかがった。

アジア初公開となる、フェルメール《牛乳を注ぐ女》

 「フェルメール《牛乳を注ぐ女》とオランダ風俗画展」は、フェルメールの《牛乳を注ぐ女》を中心に、アムステルダム国立美術館のコレクションから、17世紀から19世紀までのオランダ風俗画の多様な展開を紹介するというものです。

 未曾有の経済発展を背景に、「黄金時代」を迎えた17世紀のオランダ絵画の世界では、フランス・ハルス(1580年代-1666)や、レンブラント(1606-1669)などが活躍しました。そして、彼らとともに、17世紀オランダ美術を代表する画家がヨハネス・フェルメール(1632‐1675)です。彼は、大変に寡作な画家で、現存する作品は30数点しかないといわれますが、今回、日本初公開となるのが、独特の室内画の世界を確立した初期の代表作《牛乳を注ぐ女》です。

 この《牛乳を注ぐ女》は、所蔵先のアムステルダム国立美術館が改修工事中ということで、今回、特別にお借りすることができた作品です。この美術館では、フェルメールの作品を全部で4点所蔵していて、その中でも《牛乳を注ぐ女》は一番評価の高い作品です。大変貴重な作品なんですが、今回日本での公開が実現すると、これは日本初であると同時に、アジア初の公開となるんですね。そういったこともありまして、アムステルダムの方も出品を承諾して下さったんだと思います。

 ただし、改修工事が終わってこの作品がアムステルダムの美術館に返却されたら、今後、この絵が日本に来る可能性は極めて低いと思います。というのは、アムステルダム国立美術館では、《牛乳を注ぐ女》は常設展示で一番の目玉作品ですし、この作品を目当てに、世界各国から人々が同美術館を訪れるのですから、海外に長期貸し出しをするのは今まで以上に難しくなると思われます。

 そう考えると、日本にいながらにしてフェルメールの《牛乳を注ぐ女》を見ることができるのは、やはり、今回が唯一のタイミングかもしれません。展覧会担当者としては、他の風俗画もしっかり見ていただきたいのですが(笑)、やはり、多くの方が、フェルメールの《牛乳を注ぐ女》を楽しみに来館されることでしょう。

画家フェルメールの生前の評価は?

 フェルメールはオランダの都市、デルフトに生まれてデルフトで亡くなりました。21歳でデルフトの画家の組合である「聖ルカ組合」に入っています。当時、オランダにはアムステルダムとか、デルフトといった都市ごとに画家の組合があり、入会金を払ってここに登録して初めて、自分のサインを入れて絵を売ったり、親方として弟子をとったり、画家として生業をたてることが認められました。フェルメールの場合、注目されるのは、30歳の時にこの「聖ルカ組合」で理事に選ばれていることではないかと思います。これは組合でも史上最年少という記録的な若さです。つまり、フェルメールは、30歳にして、デルフトで最も腕の立つ画家と認められていたことになります。

 フェルメールの情報源は非常に限られていて、17世紀では1667年に出版された『デルフト市誌』が、彼について言及された唯一の書物と考えられています。残念なことに、彼の画家としての才能や作品が、同時代の人々にどう評価されていたのか、という具体的なことが記された書物は残っていません。ただ、当時のオランダの賃金労働者の平均年収が200ギルダーほどだったらしいのですが、フェルメールは1枚の絵の代金として300ギルダーをもらっていた、というようなことが分かっています。当然、その絵のほかに、別の絵も注文されて描いていたでしょうから、フェルメールは金銭的には、大変余裕があったと考えてもよいかもしれません。

「フェルメール・ブルー」が意味するもの

ヨハネス・フェルメール 《牛乳を注ぐ女》1658-59頃 ムステルダム国立美術館所蔵 (c) Rijksmuseum Amsterdam

ヨハネス・フェルメール 《牛乳を注ぐ女》1658-59頃 ムステルダム国立美術館所蔵 (c) Rijksmuseum Amsterdam

 それを裏付けるのが、フェルメールが好んで使った「ウルトラマリン」という顔料です。《牛乳を注ぐ女》でも、使用人の女性のスカートとテーブルクロスに使われているこの鮮やかなブルーは、フェルメールの特徴の1つとして、最近では「フェルメール・ブルー」とも呼ばれることもあります。これは、ラピスラズリという宝石を砕いて作った大変高価な顔料でした。それほどの高価な絵の具を、フェルメールはふんだんに使っていることを考えると、ある程度のお金をきちんと払ってくれるパトロンに恵まれていたと思われます。

 また、フェルメールの作品は、現存するもので30数点ですが、いろいろと記録をたどって今残っていないものまでいれると、43年の生涯で50~60点を描いたと言われています。それでも、同時代にアムステルダムに工房を構え、地元市民はもちろん、他の都市や国外からも注文を受けていたレンブラントなどは数百点という膨大な量の絵を描いていますから、彼に比べるとフェルメールは、大変なスローペースで制作していたことが分かると思いまします。つまり、フェルメールは、年月をかけてゆっくりと絵を描く、経済的、時間的ゆとりを、パトロンから与えられていたことになるのです。

 フェルメールは基本的には工房を構えずに、自宅のアトリエで、1人で制作していたと考えられています。家族は、奥さんとの間に子供が10人(実際には14人の子供が生まれているが、そのうちの4人が死亡)。フェルメールの絵は、よく「静謐な」と言われるように、絵の中に別もう1つの時間が流れているような永遠性が特徴なのですが、あの静寂に包まれた絵も、実は子供たちが周りでギャーギャー騒いでいる環境の中で描かれたのかな、なんて思うと楽しいですね。

 デルフトに多くのパトロンを持っていたフェルメールですが、晩年は貧困を極めたとも言われています。実は、彼が亡くなる3年前の1672年は、オランダでは「災厄の年」と言われる特別な年で、フランス軍による侵攻にイギリスが参入する形で第3次英蘭戦争が始まり、オランダのバブル景気が一気にはじけるんです。《牛乳を注ぐ女》をはじめフェルメールの作品を20点も所有していたとされるフェルメールの第一のパトロンは投資家だったと言われていますが、こうしたデルフトの富裕層の人たちもきっと没落していったでしょうから、フェルメールの貧困の理由の1つは、個人的な問題というよりも、オランダの国力が落ちる時に重なってしまったということにあるように思います。

 また、フェルメールは死後、急速に忘れられた、とも言われますが、これも彼の評価が落ちたということではありません。フェルメールはデルフトの裕福な市民のために絵を描いていたので、彼の絵が公的な王公貴族のコレクションに入ることもありませんでした。作品が人目に触れる機会が極端に少なかったことが、フェルメールが「知られざる画家」になってしまった原因の1つだと思われます。

 フェルメールの絵が初めて王侯貴族のコレクションに入るのは1822年。有名な《デルフトの眺望》がオランダ国王のウィレム1世に買い上げられるのですが、それまでも競売にかかればかなりの値段で取引されていたので、彼の作品を知る人の間では、やはり評価され続けていたのですね。

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