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狩野永徳の作品を集めた“奇跡的”な展覧会

京都国立博物館 保存修理指導室長 山本英男氏

  • 木谷 節子

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2007年10月9日(火)

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 日本美術史上、最も爛熟した絵画の黄金期桃山時代に生を受け「時代を表現するために生まれ、時代は彼のために用意された」とまで評された絵師・狩野永徳(1543-1590)。その史上初の大回顧展が、10月16日(火)より京都国立博物館で開催される(会期は11月18日まで)。旧御物3件、国宝5件を含む国内外の永徳の名品を網羅し、彼と同時代の狩野派の全貌を紹介する京都限定の美術展は、今後の開催は不可能、と言われるほどの貴重な展覧会だ。この「京都限定。30日間の奇跡」を実現した、京都国立博物館の山本英男氏に、永徳とその時代、そして展覧会の意義を伺った。

できそうでできなかった、狩野永徳展

 織田信長や豊臣秀吉ほか、多くの戦国武将に重用された狩野永徳は、安土城や大坂城、聚楽第(じゅらくだい)など、数々の館や寺社仏閣を飾った、桃山時代を代表する絵師です。しかし、当時「天下一」と言われたにもかかわらず、永徳の作品はその多くが戦火で焼け、「これは永徳の作品に違いない」というものは、わずかに10点ばかりしかありません。

“奇跡的”な狩野永徳展を実現した京都国立博物館の山本英男氏

“奇跡的”な狩野永徳展を実現した京都国立博物館の山本英男氏

 この作品の少なさは、展覧会をするには大変致命的ですが、実は私は、平成8(1996)年に、狩野派の初代・正信と、その息子の元信を中心とした室町時代の狩野派を紹介する展覧会を行っていまして、その時に、これは永徳の初期の作品ではないか?とひっかかる作品がいくつかあったんですね。というのは、永徳は、お祖父さんの元信に絵を習ったんですが、決して上手ではないけれど、元信の影響が見える永徳的な作品があった。

 そうこうしているうちに、永徳が障壁画を描いている聚光院の建立時期が、それまでの定説であった永禄9(1566)年ではなく天正11(1583)年、つまり17年下る可能性が出てきたことから、ある研究者の方が、今まで永徳24歳の時の作とされていた聚光院の国宝《花鳥図襖》を、41歳まで下ろしてもいいのではないか? と唱えられたんです。

 この聚光院の《花鳥図襖》は、大画面に巨木がうねるようないわゆる「永徳スタイル」が、しっかりと確立されている作品です。これが従来通り永徳24歳の時の作となると、彼の画業は出発地点からすでに完成していたことになります。しかし、これを永徳の40歳頃、つまり彼の画業が一番充実していたピーク時の作と考えると、私が以前から気になっていた、元信と永徳の要素がミクスチャーされた作品が、永徳の初期の作品として、非常に重要な意味を持ってくるのです。

 作品が少ないために、狩野永徳の展覧会は、誰もが「できない」と思っていたわけですが、このような説のもとに、永徳の作品を集め、かつ永徳の気風やスタイルが表れた同時代の狩野派の作品で組み立てるなら、展覧会をできるのではないか、と思いまして、今回は「初の永徳展なので、よろしくお願いします!」と、関係各位にお願いして回ったところ、なんと永徳の代表作――《唐獅子図屏風》(宮内庁三の丸尚蔵館、旧御物)、国宝《洛中洛外図屏風》(米沢市上杉博物館)、国宝《檜図屏風》(東京国立博物館)、国宝《花鳥図襖》(聚光院)ほかの名品――を、すべてお借りすることができました。私にとっては、これこそまさに奇跡でした(笑)。

 展覧会は、正味30日、京都国立博物館限定です。これは、展覧会の会期を長くして、各地を巡回させると、作品保護の関係からどうしても展示替えをしなければならなくなってしまうからなんです。せっかく来ていただいても、唐獅子がない、檜図がない、ということでは、「永徳芸術の神髄に迫る」ことにはなりませんので、今回はあえて彼の国宝級の基準作を会期中フルタイムでご紹介できる条件の方を優先しました。このような機会は、今後、絶対にあり得ませんので、ぜひ京都まで足をお運びいただければと思います。

狩野永徳と、桃山時代の狩野派ブランド

 狩野永徳の凄(すご)いところは、彼以外の絵師がその時代にいない、ということだと思います。桃山時代の美術は、だいたい天正末年までを「桃山前期」、それ以降、慶長の終わりまでを「桃山後期」とするのが一般的なのですが、後期は長谷川等伯や海北友松(かいほう・ゆうしょう)など様々な絵師が出てくるものの、前期は、永徳1人で賄っている。もちろんほかにも絵師はいたのですが、彼らは永徳の活躍の前に完全に埋没してしまうんですね。桃山前期の美術の流れは、永徳が作り上げたと言っても過言ではないのです。

 永徳は、織田信長の安土城や、豊臣秀吉の大坂城など、天下人の城を豪華な金碧障壁画で飾りましたが、もちろん、城一つひとつとっても何百面とある襖絵を彼1人で描いたわけではありません。永徳は、いわば大工の棟梁のようなもので、彼が束ねていた「狩野派」というプロの絵師集団とともに、分業体制で仕事をしていました。

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