カイロプラクターの道を選んだのは、自らの腰痛がきっかけだった。
それ以前の藤原邦康(ふじわら・くにやす)は、コンピューターグラフィックスを専門に手がける映像会社でアシスタントプロデューサーを勤めていた。

藤原邦康氏(写真:山本 雷太 以下同)
「一週間10日の泊まり込みなんてざらにあって、三週間家に帰れなかったのが最長だったと思います。プロジェクトを何本もかけ持ちしていたからですが、とにかく忙しかった。迂闊に食材なんか買い置いたりすると大変なことになって……、だからほとんど外食で済ませてました。“電通26時集合 打ちあわせ”なんてスケジュールは当たり前だったんです」
映像技術はアメリカで学んだ。
中学生の時分に観たスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスの映画に魅了され、高校卒業後に渡米。カリフォルニア州立大学で映画を専攻する。帰国した1995年は、日本でもCGが注目されはじめた時期でもある。
彼はCM制作会社に籍を置いていたが、仕事は次から次へと舞い込み、会社のほうで受けきれない依頼は半ばフリーのような立場で個人的に引き受けざるを得ない状況にもなった。どんなCGを手がけたかと訊いても、すぐには思い浮かばないほどだ。
「コマーシャルで言えばコカ・コーラとかトヨタプリウス、それからイチロニッサン……、ありましたよね。爽健美茶で蝶々がひらひら舞うCGもやったな。動画もやりました。タカラトミーさんのアニメとか、ゲームのオープニングムービーをつくったこともある。CGの搖籃期と言ってもいい時期だったんです」
オフィスでは、何脚か並べた椅子をベッド代わりに仮眠なり睡眠をとった。
それすらも煩わしくなると、フロアーの上で直に横になった。腰痛の原因は、どうやら不安定な体勢での睡眠にあったらしい。いまの仕事に興味を持ったのは実際にカイロプラクティックを受けたのがきっかけだが、藤原には別の理由もあった。
「あの当時ですら、映像業界では“SE30歳定年説”があったんです。コンピューターは日進月歩の勢いで進化していた。半年に一度は技術体系が変わって、ちょっと気を抜くと置いて行かれるような現状があったんです」
コンピューターの進化についていける限界が30歳と言われていた。
藤原はその30歳になろうとしていた。映像の世界はまずスポンサー(クライアント)がいて、次に広告代理店があり、その下に制作会社がある。末端で働く藤原らが打ちあわせで開口一番に言われることが、今回はちょっと予算が少なくて――、というものだった。そのたびに気持ちが萎えた。
技術は進歩している。その技術を使いこなす腕もある。だが、テクニックを存分に発揮できるだけの予算がない。30歳という若さは、このまま映像の仕事を続けていても大成できるのだろうかという不安を抱かせるだけだった。それが頭の隅に引っかかっていたことが大きいとも言う。
藤原は映像の世界を離れ、再びアメリカに渡る。本格的にカイロプラクティックを学ぶためだ。進学先はライフウェスト・カイロプラクティック大学。すでに州立大学を卒業していたこともあって一般教養は免除されたが、カリキュラムは医学部と全く同じだった。
最初の二年間は基礎医学を学び、細胞学、有機化学、分子学、生理学、毒学などを受講した。その間に人体解剖も研修した。三年次に臨床へ移るが、骨格はもとより、血管や神経細胞、消化器といった人体の構造を徹底的に学んだのである。
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