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『吾輩は天皇なり――熊沢天皇事件』藤巻一保著、学研新書、740円(税別)
いきなりですが問題です。
Q:天皇を訴訟することはできるでしょうか?
終戦直後の一時期、昭和天皇の人気が異様に高まる「天皇ブーム」とでもいうべき現象があった。昭和21年(1946)2月から行なわれた全国巡幸で人々が見せた熱狂のことだ。
小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)の表紙に使われている、中折れ帽を右手に国民に挨拶する昭和天皇の後ろ姿の写真、あれは広島巡幸のときのものだ。この広島巡幸の映像をYouTubeで見たことがある。天皇が壇上に登った瞬間、人々がどぉっと沸きたつその光景は、たしかに熱狂と呼ぶにふさわしいものだった。
「天皇ブーム」と平行して、「ニセ天皇ブーム」というものも起こっていた。「我こそはホンモノの天皇である!」と訴える者が続々と現われたのだ。保阪正康の著書に『天皇が十九人いた』(角川文庫)というタイトルがあるけれど、その数、20名を超えていたともいわれる。
さて、冒頭の問題の答えだが、正解は「できない」。なんと判例が残っている。つまり、訴えた者がいたわけだ。
原告は熊沢寛道という男。この男こそ本書の主人公であり、幾多のニセ天皇のなかでもひときわ有名な「熊沢天皇」その人である。
熊沢天皇ヒロミチは昭和25年(1950)、ヒロヒトはニセモノであり天皇には不適格であると東京地裁に訴えたのだ……とだけ書くとただのキチガイみたいだけれど、ことここにいたるには、歴史と運命の深ーいイタズラが潜んでいたのである。
というわけで、歴史の復習をちょっと。
「憲法上、現天皇は不適格である」
知られるとおり、後醍醐天皇から南朝と北朝が分裂対立する南北朝時代(1336〜92)に入る。明徳和約により南北朝は終わるが、後小松天皇以降、皇位は北朝系によって独占されてしまう。明徳和約は、南北から交互に天皇を出すことにしようという講和条約だったが、反故にされたわけだ。南朝は抵抗をこころみるも、長禄の変で絶滅した。
ということになっているが、こんなおいしい大ネタに、伝説や伝承、偽史が発生しないわけがない。
「南朝の血筋は絶えていない!」とする南朝イデオロギーはいちばんポピュラーなもので、熊沢天皇の主張もまさしく「我こそは正統である南朝の末裔である」というものだった。
『天皇が十九人いた』によると、熊沢天皇以外のニセ天皇も、大半は、南朝の血を引いていると主張していたという。じつは、熊沢の家系からはヒロミチ以外にも何人かの自称天皇が出ており、「熊沢天皇」だけで5人くらいいるのだ。
それほどまでに根深い南朝イデオロギーだが、北朝系であるはずの明治天皇が「南朝を正統とする」と裁可した史実もその強化に一役買っていた。
驚くべきことに、ヒロミチではないべつの熊沢天皇を昭和天皇とすげ替える「昭和維新」さえ計画されていたという。首謀者は満州事変の黒幕で、軍部もついていた。
さて、熊沢天皇ヒロミチがしたためた訴状のポイントは次のようなものだった。
ヒロヒトは閏統(正統ではない系統)の北朝系ということになっているが、じつは北朝系ですらなく、足利尊氏の子孫である。したがって、憲法に定められた「皇位の世襲」に反している。よって、不適格である。
判決はこうだった。
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