ロッシーニはアドリア海に面した中部イタリアのペーザロに生まれた。1792年2月29日、モーツァルトの没した85日後である。亡くなったのは1868年(明治維新の年)11月13日。少年期に才能を現し、没年まで活動し続けたので作曲家としての息は長いが、オペラの創作は1810〜29年の20年間にすぎなかった。
これに対し、ロッシーニの美食家としての経歴は物心がついた少年時代に始まり、生涯に及ぶ。作曲家と美食家、相容れないこの2つのかかわりを駆け足で追ってみよう。
美食家ロッシーニの歩み
1) 少年時代
ロッシーニの生家は、ペーザロ市による改修を経て、博物館として公開されている。そこに残されたかまどが、ロッシーニと食を結ぶ最初の糸である。

ロッシーニの生家(ペーザロ、撮影:水谷彰良)
父ジュゼッペから旺盛な活力、母アンナから美貌と美声を受け継いだジョアキーノ少年は「小さなアドニス」と呼ばれ、甘やかされて育った。最初の逸話は、7歳か8歳の時に近所の教会に忍び込んで「聖なるワイン」を飲み干した、というもの。いたずらばかりするので罰として鍛冶屋でふいご押しをさせられた、とも伝えられる。フランス軍に協力した父ジュゼッペが政治犯として投獄されたため、子供心に世間への不満を募らせていたようだ。
その後一家はボローニャに移り、ロッシーニは豚肉屋に憧れを抱いた。だが、オーケストラのホルン奏者を父に持ち、母がオペラ歌手として舞台に立つようになると、音楽への愛情も深まっていった。マレルビ神父にチェンバロの手ほどきを受け、ボーイ・ソプラノとして舞台で母と共演したロッシーニは、12歳にして優れた弦楽ソナタを6曲作曲して周囲を驚かせた。そして16歳でボローニャの音楽学校に入学すると、劇場で稽古ピアニストのアルバイトをしながら、作曲の腕を磨いていった。
2) デビューから《アルジェのイタリア女》まで

ロッシーニの生家に保存されているかまど(撮影:水谷彰良)
ロッシーニがオペラ作曲家となったのは1810年、18歳の時。デビュー作はヴェネツィアのサン・モイゼ劇場から委嘱された1幕ファルサ《結婚手形》である。徐々に頭角を現すとミラノのスカラ座に作品を求められ、《試金石》(1812)の成功によりロッシーニの名は瞬く間にイタリア中に轟(とどろ)いた。かくして13年、オペラ・セリアとオペラ・ブッファ両ジャンルにおける最初の傑作が誕生する。ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演した《タンクレーディ》と、サン・ベネデット劇場で初演した《アルジェのイタリア女》である。
《タンクレーディ》に関して面白いエピソードが残されている。ロッシーニは初演前々日にプリマ・ドンナから自分のアリアが気に入らないと言われると、宿屋で注文したコメ料理を待つ4分間に新たなアリア〈「こんなに胸騒ぎがDi tanti palpiti」〉を作曲した、というのだ。初演直前に新曲を書いたことは研究者によって確認されているから、この逸話には多少の真実がある。では、4分間で調理できる料理とは何か。私は残りごはんをバターで揚げる「揚げリゾットRisotto al salto」ではないか、と想像する。生ゴメにスープを足して炊きあげる一般的なリゾットであれば、調理に15分を要するからである。
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