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『学校のモンスター』諏訪哲二著、中公新書ラクレ、760円(税別)
古代エジプトの遺跡だったか、アルタミラの洞窟遺跡だったか忘れたが、「今どきの若い者は……」という老人のぼやきの落書きがあったという。
電車の床に座り込んだり、ところ構わず化粧をしたり。いじめに不登校、引きこもり、あげくに父親を斧でめった打ち――大人たちが理解できない子供が増えている。この子供たちも、やがて大人になり、「今どきの子供たちは……」とぼやくのだろうか。
本書は、約40年間教壇に立ち続けた元高校教師による、今どきの子供たちの分析書だ。学校でも今、教師の理解を超える子供たちが増えている。人呼んで「モンスター」。彼らの親もまた、その傍若無人ぶりから「モンスターペアレンツ」として、マスコミでもたびたび伝えられている。
ガラスを割った生徒の親に弁償を求めたら、「割れるようなガラスを入れる学校が悪い」と逆ギレ。運動部の顧問の教師に「ユニフォームは学校で洗濯しろ」、「うちの子をレギュラーにしろ」と深夜、しつこく電話をする。自転車で老人にけがをさせた生徒の親が「学校の自転車指導が悪い」とねじ込む……などなど、本書でも、そのモンスターぶりの一部が紹介されている。
しかし本書は、そうした荒れる現場のルポでもないし、元教師による回顧録でもない。学校にモンスターたちが出現した背景や理由を、経済や歴史など、教育の世界とは別の座標軸で体系づけたものだ。
著者は2005年に発行した『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)で、子供たちの変容ぶりと、それに対する教育論者たちのピントはずれな論評を取り上げていた。それから2年たち、子供たちの「オレ様化」はさらに強まり、教師を含めた大人たちは、どうしていいかわからなくなっているという。
消費社会が育むモンスター
著者は、モンスター出現までの時代を、I:1960年以前、II:1961~1975年、III:1976年以降、の3つに大別している。そして、Iを農業社会、IIを産業社会、IIIを消費社会と定義する。
農業社会では、学校・家庭・地域の3層構造がそれぞれ機能していた。教師は威厳を持ち、家では親がしつけをし、地域では年寄りが子供たちに社会性を身につけさせた。「子供はかくあるべき」という価値観は一致していた。
続く産業社会の時代に、テレビが家庭に入り込む。子どもたちは、これまで親や教師を通じてしか得られなかったさまざまな情報を、テレビから手に入れるようになる。
そして消費社会になると、家庭という消費単位が、子供も含めた家族一人ひとりに分散していく。この背景には、消費単位が増えた方がより購買力が高まるという企業戦略がある。自由な消費主体として行動することを覚えた親と子は、それをそのまま学校という社会にも持ち込む。
つまり、店とお客という消費社会の関係を、教師と生徒という教育の現場にも当てはめる。そして学校もそれに迎合するかのように、「教育はサービス産業だ」などと一部の教師が口にする。
店とお客の関係は対等だ。買った商品が気に入らなければ、平気でクレームをつける。子供ですら、授業中のおしゃべりを注意されると、「先生は授業をしたいかもしれないが、私は今、おしゃべりをしたいのだから放っておいてくれ」と、教師と対等の立場で答える。
諏訪氏はこのような歴史的な変遷をたどって出現したモンスターやモンスターペアレンツの相手を、「これはもはや教育ではなく、福祉だ」と切って捨てる。
本書を読んでいないのでよくわかりませんが、傍若無人な親や生徒というのは昔からいたはず。最近それが増えているように感じるのは、傍若無人な振る舞いをしても問題無い、つまりそれを受け入れてしまう教師が増えたからでは?果たして、授業中に騒ぐことまで「常識がずれているだけ」などと受け入れて良いのでしょうか。私が学生だった15年ほど前で既に授業崩壊している教師がチラホラいましたが、そういった教師に共通するのは騒いでも叱らないことと授業がつまらないこと(教え方が下手)です。要するに傍若無人な振る舞いをされる教師は、信用が無く舐められているのです。もちろん傍若無人な振る舞いは許されませんが、教師にも毅然とした対応を求めます。書評を読む限りでは著者があまりにも他人事に感じ、教師に対し危機感を覚えました。(2007/11/08)