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第15回 浦賀に潜居した北斎

伊八の力強い彫刻「黄石公と張良」に出合う

  • 内田 千鶴子

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2007年11月13日(火)

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 1831(天保2)年から33(天保4)年頃、『冨嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』「化け物絵」など、一連の錦絵を刊行し、名実ともに第一級の浮世絵師としての地位を確立させた北斎であったが、なぜか、1834(天保5)年から36(天保7)年頃まで神奈川県横須賀市浦賀方面に身を隠して暮らしていた事実があった。この時、北斎は75~76歳。

 西浦賀は、江戸より10里から11里ほどの場所に位置し、ちょうど江戸払(御構=おかまえ)の距離に当たる。

 一説では、

  1. 北斎に借財が重なり、催促から逃れるため
  2. 婿にあたる絵師・柳川重信の子(北斎の孫)が放蕩し、その累が自分に及ぶのを避けた

 ――などが、西浦賀に脱出した理由だとされている。

 しかし、この頃、江戸は天候不順による大凶作となり、食料事情が極度に悪化していた。

 1833(天保4)年、全国的に低温、多雨が続いたうえ、東北地方では大洪水が起こり、関東地方でも大雨が降り、作物は例年の3分の1もしくは全滅のところもあった。食料を求めて、打ち壊しが各地に広がった。特に江戸、大坂、京都の3都の食料事情は最悪の状態となった。

 1836(天保7)年8月、米価が異常に高騰し、甲斐地方で郡内騒動、9月には三河で大一揆が起こる。大坂でも、同9月、コメや青物類が下層市民に渡らず、コメ屋などが打ち壊しに遭った。この事態に、元・大坂東町奉行与力だった大塩平八郎は、東町奉行に就任した、老中水野忠邦の実弟跡部山城守良弼(よしただ)に窮民の救済を再三にわたって要請したが、跡部は何の手立ても講じてくれなかった。業を煮やした平八郎は、窮民を救うべく300人の細民、貧農を従え、反乱を起こしたのである。俗に言う「大塩平八郎の乱」である。乱は半日で鎮圧されたが、大坂の事態は将軍、幕閣の面々を震撼させる大事件であった。北斎や他の浮世絵師や版元たちも、あまりの食料事情の悪さに半ば休業状態で、北斎は「肉筆画帖」をいくつも描いて版元の店先で売らせ、餓死を逃れるという状況に陥っていた。そこで、北斎は魚や野菜が手に入る浦賀へ急遽脱出したのではないか。

北斎が江戸を脱出したのは食料難のため? それとも…

 では、なぜ、北斎は西浦賀を目指したのだろう。

横須賀市吉井の真福寺にある十字に刻んだ墓碑。この下は昔、キリスト教信者の集会場になっていたらしい

横須賀市吉井の真福寺にある十字に刻んだ墓碑。この下は昔、キリスト教信者の集会場になっていたらしい (撮影:清水健、以下同)

真福寺の観音堂に安置された、イエスを抱いたマリア観音

真福寺の観音堂に安置された、イエスを抱いたマリア観音

 理由は2つある。

 1つには、北斎の父方の親戚筋の家が浦賀にあって、その縁故を頼ったというもの。1972(昭和47)年刊の研究誌「浮世絵芸術」35号に、由良哲次の「北斎の父系と母系」という論文が掲載されている。これによれば、浅草誓教寺にある北斎の墓碑に、父祖は、仏師屋清七、北斎の父の俗名が川村市良衛門、その実弟が川村八右衛門だとある。八右衛門は、後年、相州西浦賀の倉田屋を継ぎ、2代目倉田藤三郎を名乗ったという。倉田家は西浦賀の御用廻船問屋で、浦賀奉行の御勝手御用達を務め、浦賀付近に近づく諸国廻船改めを補佐する役割を担っていたようだ。北斎が浦賀に潜居した天保5年から同7年頃、2代目藤三郎は他界し、3代目藤三郎が家を継いでいた。

 この倉田家の墓碑が神奈川県横須賀市吉井の浄土宗真福寺にあった。真福寺は1528(享禄元)年創建の古い寺で、境内の広さは385坪。真福寺正門を入って左手、階段を昇っていくと観音堂があり、その右手に「倉田先祖代々」と刻まれた、当時廻船問屋だった倉田家の墓がある。観音堂を挟んで反対側には、墓碑のてっぺんに十字を刻んだ墓がいくつも並んでいる。住職によれば、墓石の下には部屋があり、昔、キリスト教信者の集会場になっていたという。現在その空間は納骨堂として利用されている。

 観音堂は、もと西浦賀の谷戸にあったが、1914(大正3)年に大破したので、真福寺の檀家が寺の境内に移築したという。この観音堂の厨子の前に、子供を抱いた小さな観音が安置されている。裳の端が魚の形になっていて、ヘブライ語ではイエスは魚を意味するから、この観音はイエスを抱いたマリアであると考えられる。この観音堂はキリスト教信者の寄り合い場であったようだ。

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