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『漱石夫妻 愛のかたち』松岡陽子マックレイン著、朝日新書、700円(税別)
死後90年以上経って尚、読み継がれる文豪。「千円札」の顔にもなった。そんなエライ人を身内に持つというのは、どういうものなのだろう。
1932(昭和7)年、漱石の17回忌、弟子や親族が揃った写真が、本書の中に挿し込まれている。奥まった祭壇中央に飾られた漱石の遺影を囲んで、全員が口を一文字に結んでいる様子は、時代を経て、いまやポップアートの気配がする。
見なれたポートレートより、「本人不在」の集合写真の方に、この世に文豪の実在した痕跡がうかがえるところが面白い。
前列で大人たちに挟まれ、腰掛けた椅子から床に足が届かず、タイツをはいた脚をぶらつかせている「ワカメちゃんカット」の少女が本書の著者だ。漱石の長女を母に、晩年の弟子を父にもった。1964年から米オレゴン大で30年、日本語、近代文学を教え、現在は同大学の名誉教授でもある。
〈母はよく、「天才を父に持つものではないわ。父親は平凡な人の方がいいのよ」と言っていたが、それが母の本心だったにちがいない〉
1916(大正5)年に49歳という若さで他界した漱石は、生存中に孫を持たなかった。ゆえに著者にとっても、漱石=祖父という感覚はないらしい。祖母・鏡子(漱石の妻)、母・筆子、そして叔父叔母から聞いた話をもとに、本書でも著者は「漱石」と一般化して語っている。
文豪については客観視しようとしているのに、幼い頃にふれあった祖母や母親を語る際には感情的になるのを押えきれないらしい。
目を向けられるのはいつも“祖父”
漱石を慕い、独占したがった弟子たちによって「悪妻」というレッテルを貼られた祖母。弟子の一人と結婚した際、「もう少し待てば自分がもらってやってもよかったのに」と他の弟子から見下された母。あえて弁明もせず、言われるままだった身内を庇おうとすると、つい力が入るらしい。
その一方で、月命日には弟子が集まり、祖母は会食の輪の中で楽しげに過ごしてもいたという。夏には別荘で、父と弟子仲間がむつまじく語り合っていた様子も、著者は子ども時代の楽しい思い出として記憶にとどめている。
〈北軽井沢では、父(松岡譲)と漱石のお弟子さんたちが話すのをいつも脇で聞いていたが、彼らはよく「先生が、先生が」と懐かしそうに話していた。残念ながらどんな内容だったのかは、まったく覚えていないが、漱石について語る森田草平氏の声は記憶に残っている〉
そんな様子を日記に綴り、夏休みの宿題として提出すると、女学校の担任から、「面白かったわ。私たちがほとんど会うことのできないような有名な人たちが毎日のように出てくるんですもの」と言われたという。
文章をほめられたわけではない。女教師は文学ファンで、著者は、たまたま文豪の孫という境遇に生まれたことに興味を抱かれただけなのだと、子ども心にも複雑な感情を味わった。
好奇の目を向けられるのは自分ではなく、血縁なのだという認識。他者からすれば、ささいなことだが、このときの体験は、後々の思考の基盤にもなったようだ。
千円札になった漱石の顔に、娘は
アメリカに住む著者は、漱石の孫であることを自慢しない、おくゆかしさを称えられた際の違和感をもとに、こんなことを綴っている。
〈アメリカ人はときどき、自分がアメリカ人であることを誇りに思うと言うが、偶然をどうして誇りに思えるのか、いつも不思議だ〉
漱石は、東大の講師をしたり、朝日新聞社と契約したりして、かなりの高給取りではあったが、子沢山な上に、事業に失敗した親族や寄り集まってくる弟子や友人たちを援助し、稼げども稼げども、開けっ放しの蛇口のようにお金は貯まることもなく(漱石同様に、妻の鏡子も、面倒見も気前もよかった。そのため浪費家、悪妻とも言われたらしい)、死ぬまで借家住まいで、自分の家を持たなかった。
しかし、家族がもっともわずらわされたのは、お金のことではなかった。
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