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『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節著、講談社現代新書、720円(税別)
もし読者の中に、「キツネにだまされたことがある」という方がいたら、ご一報ください。取材に行きます。そう言いたくなるくらい、キツネにだまされた体験を持つ人はまずいないだろう。
しかし、キツネが人に悪さをする、人を化かすという話は日本各地にごまんとある。子ども時代には、そんな話をいくつも読んだり聞かされたりしたものではないだろうか。
たとえば、キツネが人間の不意をついて食べ物をかすめ取る話は多い。それはキツネがその土地の自然や人間の習性を熟知しているからできることであり、いわば野生の知恵のようなものだろうと得心がいく。だが、中にはキツネが旅人や女など人間に姿を変え、いい温泉があると川に入らせたり、おいしいまんじゅうだと馬糞を食べさせたりするという、人がすっかりしてやられた話もあるのだ。
そこまでキツネに「だまされていた」はずの人間だが、1965年以降この手の話は発生しなくなり、と同時に急激に姿を消していく。この現象に気づいた著者が、その謎を歴史哲学の見地から解いてみたいと筆を執ったのが本書である。
では、なぜ人間はキツネに「だまされなくなった」のだろう。
「キツネにだまされる」ことを共有した社会
著者が転換期と位置づける1960年代は、高度経済成長の真っただ中である。人々は森羅万象の神々に自分が包まれているという感覚を失い、科学的に説明のつかないものを「迷信」「まやかし」だと否定し始めた。
また、進学率も高まり、村社会、親、年長から受ける多層的な教育は、試験合格能力だけを問う一元的な学校教育へとシフトした。加えて、人工的な拡大造林政策や焼畑農業の終焉が森や自然を変え、人間をだますような狡猾な老キツネが暮らせる場所もなくなった……等々、前半ではこうした数々の社会変化について触れられている。
ここまでは、一応の説得力はあるものの、誰もが考えつきそうな総括だとも言える。だが後半では一転、生命というものの捉え方や、人間と自然とのコミュニケーションが変わってしまったことにフォーカスし、「だまされなくなった」目新しい理由を示していく。
著者が1年の半分を過ごす群馬県上野村に伝わる、「山上がり」という山に籠もって暮らす風習が、戦後しばらくして消滅してしまったように、人間はいつしか山や自然と調和して生きる能力を失ってしまった。それにつれ、科学や合理性では捉えられない世界をつかめなくなっていった。
〈可視的な、不可視的なさまざまな生命の存在する世界〉がかつて村人たちが肌で感じ取っていた豊かな生命世界である。そうした共有思想の中で人々はキツネにだまされることを受け入れてきたのだという。
もちろん、そもそも本当に人はキツネにだまされたりするのか、自分の失敗を「だまされた」と言っているだけではないか、という疑問は浮かぶ。しかし、その問いはこの際意味をなさないと著者は書く。
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