オフィスの玄関を入ると左右に扉がひとつずつあり、それぞれが男女に分かれた脱衣室になっていた。

鈴木孝則氏 (写真:矢内耕平、以下同)
鈴木孝則(すずき・たかのり)は、そこでシャワーを浴びてくれという。
事前に聞いたときは、たとえば研究所や工場の無菌室に入る際に浴びるエアシャワーの類を想像していたが、そこでは言葉どおりシャワーを浴びなければならなかった。できれば洗髪もしてほしいという。言われたとおり、私は頭から全身を洗った。
シャワーを浴び終えると、脱衣室とは反対側の更衣室に進むよう促される。そこにはバスタオルと一緒に、おろしたての下着から靴下、Tシャツ、それに作業用のツナギが一揃え用意されていた。これを着ろという意味らしい。
オフィスに入るには、それだけの“儀式”が必要だった。
何故なら、そこは養豚場で、外部からの雑菌を持ち込むわけにはいかないからである。私ばかりでなく、鈴木ら農場で働くスタッフもみな、出勤するとオフィスに入る前にまずシャワーを浴びる。早い話が、洗髪洗体は彼らにとってタイムカードを押すような感覚なのだろう。
帰宅するときも同様だ。シャワールームを経由しないと最初に入った脱衣所に戻ることはできない。ただし、帰りにシャワーを浴びるのは全身に染み込んだ豚の匂いを落とすためではあるが。

匂いはかなり強い。
農場の敷地内に入っただけで、豚肉の匂いが充満しているといった感じだった。だが、この匂いが駄目だというひとは豚肉を食べなければいいだけの話だ。私には、力強い生命力を思わせる匂いに感じられた。
鈴木はまだ30歳と若いが、この養豚場で場長を任されている。
千葉県旭市に本社を置く農場は経営規模が大きく、隣接する銚子市や東庄市に六つの農場を所有している。鈴木が任された森戸農場は“繁殖農場”だ。
「うちは分業体制でやっているので、ここでは繁殖……、つまり、母豚(ぼとん)に子供を生ませて、離乳するまでの面倒をみます。離乳した子豚が、次は肥育農場で育てられるんですね」
森戸農場には四つの豚舎がある。
それが、交配豚舎、妊娠豚舎、分娩豚舎と育成豚舎だ。
交配はすべて人工受精だが、その作業が行われるのが交配豚舎。発情期を迎えたメス豚ばかりが600頭近く集められる。そこで受胎した豚が妊娠豚舎に移され、人間で言うところの“十月十日”を過ごす。豚は妊娠すると平均114日で出産するらしいが、予定日が近づいた豚を移すのが分娩豚舎だ。ここで授乳を行い、子豚が離乳したらまた交配豚舎に戻すというサイクルが繰り返される。
それとは別に、まだ分娩経験のない若いメス豚を育てる施設が育成豚舎になる。
全部で十室ある分娩室には28頭ぶんの分娩所がある。他の豚舎の室温が21度前後に設定されているのに比べ、分娩豚舎の室温は30度とかなり熱いのは、それが生まれたての子豚にもっとも適した温度だからだそうだ。

通路の左手には、つい二、三日前に生まれたという子豚が競うように母豚の乳を吸い、右手には生後十日前後の子豚たちがじゃれあうように駆けまわっている。だが、離乳した後、肥育農場に移された子豚は、遅くても半年後には出荷されるのだ。この子たちは、食肉になるために生まれてきたのだから。
生まれた翌日には尻尾を切られ、オスならば去勢手術を受ける。それをするのも鈴木らの仕事だ。
「可愛いですよ。生まれたときは小さくて拳ふたつぶんくらいですが、22〜23日後に離乳するときは七キロくらいになりますからね。でも、感情をもってはいけない仕事なんです。可愛いことは可愛いけど、可哀想だなと思ったら続けられないですから」
畜産に関わる知りあいどおしで情報交換をすることもある。
特に、牛を育てている友人に訊くと、豚よりも肥育に時間がかかるぶん情も移ってしまい、出荷の際は切なくなるのだという。
「牛に比べれば豚は大量生産なので、まだいいんですよ。養豚場だから牛はいないけど、ぼくが牛を育ててたら続かなかったかもしれない」
だから、彼らは感情を消すのだ。
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