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日記を「ジャーナリズム」にした清沢洌

2007年12月13日(木)

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 前回は民主党衆議院議員・長妻昭氏をお訪ねし、ジャーナリズムについて語っていただいた。今回はそこで出た話題について解説してゆく。前回連載分と照らし合わせながらお読みいただきたい。

【ミスター年金・長妻昭氏に聞く取材テクニック】

前編:官僚から「本当の話」を聞き出す方法
後編:政治家と官僚の“相互不可侵条約”を打ち破る報道を

 インタビュー対談では、生き方としてのジャーナリズムということがテーマになった。話に出ているようにジャーナルの語源はラテン語のディウルヌスdiurnusである。これは「1日の」という意味の形容詞である。例えば、この形容詞を用いてローマ時代に官報『アクタ・ディウルナ』が発行された。日刊で政府の活動を広報しようとしたものだった。

 ただし、この『アクタ・ディウルナ』をジャーナリズムの起源と見なすことには多少の留保が必要だろう。官報はあくまでも政府発表の情報メディアである。『アクタ・ディウルナ』は確かにディウルナ=ジャーナルの語を冠した日刊発行物の嚆矢だったかもしれないが、それを最初のジャーナリズムと見なしてしまうと、政府発表情報とジャーナリズムの距離感を失わせかねない。

 ローマまで遡らずに英語の歴史に注目した方が、ジャーナリズムの理解は易しいのだと思う。『オックスフォード英語辞典』によれば毎日の記録、つまり日記としてジャーナルの語が用いられるようになったのは1500年頃から、日刊新聞にジャーナルの語が使われるようになったのはもっと時代を下って1728年以降なのだそうだ。つまりジャーナルの意味としては「日記」の方が早く確立された。「ジャーナリスト」とはまず「日記作者」だったのである(以上、鶴見俊輔『ジャーナリズムの思想』筑摩書房より)。

 ではなぜ日記を記すのか。個人的な備忘録のため、ということが多いのだろう。しかし中には後世に書き残す意志を持った人もいただろう。典型的なのは戦前、戦中の時代を生きた外交評論家にしてジャーナリストの清沢洌(きよさわ・きよし)が戦争中に書きためていた日記だ。

日記だけが個人に残されたメディアだった

 若き日に米国で暮らした清沢は米国の実力を知っており、日米開戦に極めて否定的だった。勝ち目のない戦争に突入しようとしている国策を批判する記事を多く書いた清沢は、やがて情報統制の時代にマスメディアでの発言の機会を次第に失ってゆく。そして最後に日記だけが彼に残った。

 清沢は日本社会が戦争中にどのような対応をしたか書き記すことが、敗戦後の時代に役立つと考え、膨大な記録を「戦時日記」と記した大学ノート、日記帳に書き残した(より具体的には戦後に自分で「現代史」を執筆する時の資料にしようとしていた)。残念ながら彼自身は終戦の日を前に亡くなってしまうが、その日記は編者・橋川文三によって『暗黒日記』の題を与えられて戦後に刊行された。

 この清沢のケースのように「残す」意志の反映である日記の場合、ただ日々の思いをつれづれに書くだけでなく、より自覚的な調査活動を伴うことが多い。清沢も特に取材と銘打ってはいなかっただろうが、日々の出会いの中で聞き取れた印象的な言葉を書き留め、新聞の切り抜きを日記に張り付けていた。こうした調査を伴う記録という作業にまで至れば、日記はほとんどジャーナリズムの様相を呈する。

 そして、そこで示されているのは「生き方としてのジャーナリズム」と「職業としてのジャーナリズム」の乖離ではないか。

 日記作家は職業として日記を記しているわけではない。ただ調査し、記録することに価値を見ている。それがジャーナリズムになるとすれば、彼はジャーナリストという生き方を生きている、と言えるのではないか。

 私たちにとって既に習い性になっているようにジャーナリズムを職業の名だと考える時、そうした生き方としてのジャーナリズムのあり方は見失われがちだ。職業ジャーナリズムとしての新聞はより多くの人に読まれることを良しと考え、テレビはより多くの人に見られようとする。それはジャーナリズムの力が世論の喚起を介して機能するものであり、その力を求めようとすれば数の論理が必要となる事情によっているが、一方でそれは新聞人や放送人たちが職業としての安定や、収益の向上を目指すことでもある。

 日記は記録の時点では刊行されないために何の社会的影響力も持ち得ないが、だからこそ、逆に、例えば部数拡大の要請や、組織としての安定のために必要な配慮等々を求められることなく、存分に調査し、記録できるという点では、日刊新聞としての「ジャーナル」よりも日記の「ジャーナル」の方がむしろジャーナリズムらしいと言えるのかもしれない。

 もちろん影響力のないジャーナリズムに安住するわけにもゆかず、日記礼賛もほどほどにすべきではあろう。だが、職業ではなく生き方としてのジャーナリズムを意識することで見えてくる新しいジャーナリズムの風景があることも確かなのだ。職業としてのジャーナリズムとは異なる場所に、ジャーナリストの志が純粋に定置され得るジャーナリズムのあり方を見ること。そうしてみると長妻昭氏が国会議員になってなおジャーナリストなのであるということに私たちは気づくのだ。

長妻昭氏の生い立ち

 実は、長妻氏とは取材の前に1つの話題で盛り上がっていた。事前に人物資料を読むと、筆者とかなり東京の近いエリアで育ったのではないかと思ったのだ。というのも、長妻氏も都立高校出身で、その高校は筆者の母校と同じ「学区」に属していた。

 学区という制度は今はもうないが、当時の都立高校は地区ごとにグループ(=学区)に分けられ、その中で数校ずつ組み合わされて「学校群」を形成していた。学生は自分の居住所の学区の中から学校群を選んで受験する。そして学校群の合格ラインに達すると自動的に(受験生の意志を反映させずに)個々の高校に割り振られる。

 この学校群制度は、日比谷、戸山といった歴史の長い名門都立高校と他の高校との格差を平準化するための措置だと説明されていた。だが結果として第1志望の高校ではなく、同じ学校群の別の高校に割り振られることもあり、その校風が気に入らなかったり、通学時間が延びてしまうことを理由に、私立に進学先を変える学生も少なくない、あまり評判のよくない制度であった。ちなみに筆者と長妻氏の学区は中野区、杉並区、練馬区の3区で形成されていた第3学区である。

 おそらくその3つの区のどこかに長妻氏も住んでいたはずなので「同じ学校群ですけど生まれ育ちはどこだったのですか?」と尋ねてみた。すると驚くべきことに筆者の自宅から1キロも離れていない場所の育ちだった。年齢もわずかしか違わない。それが分かると俄然、取材がしやすくなる。どういう環境の中で、どのような時代の空気を吸いながら育ったのかが分かるからだ。

 神戸女学院大学教授・内田樹は1958(昭和33)年が戦後日本にとって最高の年だったのではないかと述べている。「僕は、一九五八、五九年当時の、戦後民主主義社会が成熟してきた日本が最も幸福だったと思っているんです」(「日本人が共同体からの利益を捨てるまで」『中央公論』2007年12月号)。

 それは『三丁目の夕日』の舞台となった年であり、実は筆者はまさにその年に生まれているし、長妻氏もその直後に誕生する。映画「三丁目の夕日」でも東京は盛大に普請中だが、筆者が物心ついた頃にも東京五輪を目指して至る所で工事がなされていた。家の近くではカンナナ(環状7号線)が作られ、西武池袋線を立体交差で越えようとしていた。

 道路と鉄道の立体交差はまだ珍しく、その建設途中の風景を休日に父親がこぐ自転車の荷台に乗せられてよく見物に行ったものだ。父親はそこで鉄骨の端材を貰ってきて、家の日曜大工用に使ったりしていた。その意味では我が家も東京五輪特需で潤っていたことになる。というのは半ば以上冗談だが、日本が豊かになるのが実感としてあり得た時代だったことは確かだった。おそらく長妻氏にも同じような少年時代があったのだろうと推測する。

 だが内田にならえば、昭和33(1958)年を頂点に日本はダメになってゆく。

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