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第18回 浦賀測量事件と蛮社の獄

北斎の画風は一変し、古典的な絵画を描くようになる

  • 内田 千鶴子

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2007年12月25日(火)

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 相模浦賀は江戸湾頭として、イギリス船やアメリカ船が来航しては通商を要求される重要な拠点だった(蝦夷地や長崎も同様)。

神奈川県・浦賀の燈明崎。復元された燈明台が見える。日本で初めて油を使った灯台と言われ、船の航行の目印とされた。横須賀市指定史跡

神奈川県・浦賀の燈明崎。復元された燈明台が見える。日本で初めて油を使った灯台と言われ、船の航行の目印とされた。横須賀市指定史跡(撮影:清水健)

 1818(文政元)年5月、イギリス人ゴルドンが浦賀に来航、貿易を要求。1824(文政7)年、イギリス船が常陸大津浜へ上陸、薪水を強要。翌1825(文政8)年2月、幕府は沿海大名に外国船の接近に対し、即時撃退を命ずる(文政の異国船打払令)。

 1828年(文政11)年のシーボルト事件から9年を経た1837(天保8)年6月、日本の漂流民7人を乗せたアメリカ船モリソン号が江戸湾頭から江戸へ向かっていた。これを浦賀奉行・太田運八郎が砲撃、モリソン号は江戸湾外に退去した。

 この事態を憂慮した老中・水野忠邦は幕領の海防担当者として江戸湾防備体制を固めるに至る。

 だが、太平洋岸の三河渥美半島に城を持つ田原藩の藩士・渡辺崋山は、外国船を迎撃したモリソン号事件を批判し、私文書『慎機論』を書いている。

洋学嫌いの鳥居耀蔵と開明派の江川英龍の確執

 1838(天保9)年12月14日、老中・水野忠邦は、大学頭・林述斎の三男で、大の洋学嫌いの目付・鳥居耀蔵と、伊豆韮山の代官で開明派の江川英龍の両名に、江戸湾防備体制を強化するため相模備場(そなえば=台場)の検分を命じた。その後、鳥居は相州のほかに安房・上総・伊豆下田まで巡検する必要ありと幕府に提言し、承諾を得た。その事実を知らされていない江川は憤然と抗議し、両者の間は早くも軋(きし)みを見せ始める。

 江川は伊豆・相模・武蔵・駿河の4カ国を支配していたから、海防は避けられない課題だった。この頃、江川に人脈や知識を与えた崋山は、好きな絵画を放擲(ほうてき)し、天保の飢饉に対するため、藩に対してあらゆる方策を施し活躍していた。

 田原藩は三河渥美半島の付け根にある1万石の小藩だったが、太平洋上に臨むただ1つの城を構えていたから、1739(元文4)年に海防令が施行されて以来、海防研究や諸外国の事情にとりわけ精通していた。海防掛を拝命した崋山の、外圧に対する危機感は並大抵ではなく、勘定吟味役・川路聖謨(としあきら)や増上寺御霊屋の代官・奥村喜三郎、伊賀者・内田弥太郎などの幕臣に加え、シーボルト事件で江戸へ逃げ帰った蘭学者・高野長英、岸和田藩医・小関三英ら洋学者とたびたび会合を持ち、崋山は尚歯会(国学者から「蘭学を学ぶ野蛮な結社=蛮社」とも呼ばれた)で新知識を交換し合うリーダー的役割を果たしていた。

 1838(天保9)年12月、相模の備場検分を命ぜられた江川英龍は、すぐさま崋山に連絡を取った。当時、三浦半島の備場は、浦賀近郊の観音崎と平根山の2カ所にあり、兵員は90人、浦賀奉行が管轄していた。

 一方、房総半島の備場は竹ケ岡と富津にあり、兵員40人、代官・森覚蔵が管轄していたが、総体的に江戸湾防備としては貧弱なものであった。そこで相州備場を巡検の後、鳥居と江川は新たな備場の新設とその場所の選定のために、浦賀海岸の測量が必要となった。だが、この測量を巡って鳥居と江川の仲が再び険悪となる。

 鳥居が江川に反感を抱いた理由は、江川に同行する崋山推薦の測量技術士・奥村喜三郎と内田弥太郎の存在が気にくわなかったからだ。奥村は増上寺代官、内田は明屋敷番伊賀者で、2人とも蘭学者・高野長英の門人。奥村は測量技術士として優れ、内田は算術にたけていた。ところが、鳥居は素性の知れない地侍を測量技術士として使うわけにはいかないと言うのである。さらに測量するに当たり、崋山が江川に貸した写真鏡・遠目鏡・測量器具も鳥居の妬心を買った。

 こうして浦賀・房総・三崎・城ヶ島・小田原・伊豆東海岸など江戸湾沿海の検分を終えた鳥居と江川には、江戸湾防備改革案を立案し、それを報告する任務が残っていた。江川は、崋山から『諸国建地草図』1冊と『西洋事情書』2冊の著書を贈られ、それを参考にして江戸湾防備に関する復命書をまとめ、勘定所へ提出した。江川の復命書の方が鳥居のものより、より革新的だった。

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